得意科目ならまだしも、性格、コミュニケーション能力、就職や結婚の適性など、過剰に二分化されている。高校時代に明確な理由を持って文理を選択した人もいれば、なんとなく選択した人もいるだろう。しかし、文系であるか、理系であるかで世間は勝手にイメージや評価を決めつける。それに迷惑した人も(あるいは得をした人も)少なくはないだろう。

 そして、個人だけでなく、社会全体でも文系と理系の二分法は強固な分類として猛威を振るう。某省庁が発信した文系を軽視する文書は議論を生み、おおいに世間を騒がせた。また、鳩山内閣は首相が理系で、閣僚に理系出身者が多く、戦後初の理系内閣と話題となった。

 欧米諸国でも文系と理系とを分けることはある。しかし、日本ほどかっちり2つに分類されてはいない。なぜ、日本では、文系と理系を真っ二つに分けるようになったのか、その経緯はどんなものだったのだろうか。

文系と理系の二分割の
大きな決め手は1910年代

 時代をさかのぼること明治時代、当時は海外から様々な学問がもたらされた。そのなかで、日本の知識人が驚いたのは、学問が様々な分野に細分化されていたことだった。東アジアにはそのような考えが無かったからである。

 そして、西周はscienceに、ばらばらにわかれた学問という意味である「科学」という訳語をあてはめた(1830年代、実験教育が効果的な方法として定着した英国で、scientistという言葉が使われるようになったが、「自然科学にばかりに夢中になっている人」という意味の込められた言葉で、皮肉交じりのものだった)。また、文化系専門科目を「心理上学」、理科系専門科目を「物理上学」と呼ぶことを提案した。

 文系と理系の二分割の大きな決め手は1910年代にある。大学入学試験の準備段階で、文系志望・理系志望に二分する方式が定着していったのだ。背景にあったのは、一刻も無駄にできない欧米列強との争いの中で、法と工学の実務家育成が急務であったことだ。国家の発展に資する人材を育成する役割を大学が担っていた。その傍らで、人文科学系は就職の進路は限られ、理系の中でも理学部出身者は、基礎科学離れをその当時から憂う議論を展開していた。ただし、その頃の大学生は全人口の1%のエリートである。