仏教と東洋思想が人工知能開発を次の段階へ

マインドフルネスを「筋トレ」から「オーガニック・ラーニング」へ

三宅 実は仏教というのは、私たち人工知能の開発者にとって知りたい知識の宝庫なんです。私たちがいちばん知りたいのは「人間の知能ってどうなっているの」ということなんですけど、たとえば仏教の教えをひもとくと、人の知能が多層構造になっていることなど千年以上も前から理論としてあったわけです。

 一方で西洋の哲学書をいくら読んでも、知能のモデルは出てこない。また西洋から見ると、仏教はサイエンスではないので、あまり人工知能の文脈には乗ってこない。実験をやって結果を出すのではなくて、自分で経験することによって会得するものですから。仏教は人間の知能の形を体験で探求しているんですね。

 西洋の人には、仏教がまさかそんなに深い「知能」を抱えているとはなかなかわからない。そこをなるべくわかりやすくしようというのが私の研究でもあるんです。

藤田 先ほどお話しした「解像度の高い目で経験を観る」ことが仏教の探求方法ですからね。仏教や東洋の瞑想の伝統は、解像度の高い目で自分の内的世界を観測する装置を開発したけど、西洋は外部を観察する解像度の高い望遠鏡や電子顕微鏡を開発したと、そういう感じですね。

三宅 そうなんですよ。それに西洋の哲学者は物事を分解して組み上げるところで知を形成するという考え方なのに対し、東洋の思想家は物事を区別しないところから知が生まれる、という発想なんですね。だから仏教を勉強すればするほど、私たち人工知能の開発者たちが知りたいと思っていることが出てくるんです。

 さすがに教典を読むことはできないので、仏教についてわかりやすく書かれたものをヒントにしているんですが。本来の形をわかりやすくディダクションしたものを目的に応じて利用しているという点では、私のやっていることもマインドフルネスに似ていると言ってもいいかもしれません。

藤田 そうですね。初期仏典なんかについては、今はわかりやすく書いてある本も多いです。仏教は古くさいパッケージングをしてきたせいで、骨董品のように扱われてきました。でも古い蓄音機だって飾って置いておくだけではただの昔の音楽装置というところで終わってしまうけれど、まわして鳴らしたら懐かしい音が聴こえてくる。

 だから仏教も、取り出して音を出さないとダメなんです。まだたぶん賞味期限は切れていないはずですから。

三宅 賞味期限が切れているどころかむしろ必要とされているからこそ、西洋で取り入れられたのでしょうね。ただ彼らもそこに本質があるとわかっていてもなかなか取り出せない。だからそのあいだを藤田さんのような方々がつないでいる。

 実は西洋哲学の上に立ってきた人工知能も今、行き詰まっているんです。おそらくいつか、東洋のいろんな知見を取り入れるともう一段階高い人工知能ができるとみな気づくと思うんですよね。

 私はそれを何とか伝えたいと思っているんですが、なかなかうまく伝えられない。マインドフルネスのようにうまくキャッチーな感じで伝えられたら、将来は人工知能研究者が必死に仏典を読むというような時代がくるのではないかと。藤田さんのような方々と人工知能研究者とが一緒に人工知能を作るという、そういう未来が来るのではないかと思っています。