日本のポップス界での活躍を捨て、ジャズ・ピアニストになるべく47歳で渡米した大江千里さん。それから12年目となる今、5枚目の前作『Boys&Girls』は全米のジャズラジオチャートで70位に。ライブ活動は全米からヨーロッパにまでと広がっています。9月4日に発売になった6枚目のアルバム『Hmmm』も、さらに磨きのかかったオリジナル9曲を収録。還暦を前に振り返る人生と、音楽への冷めやらぬ思いを4回にわたり、語ってもらいました。インタビュー第3回では、アメリカで音楽活動を続けていく彼の生々しくもリアルな姿が浮き彫りになっています。(聞き手/森 綾、撮影/榊 智朗)
一人口説き、それを武器に一人口説きっていう感じで
――さてさて。ジャズ・ピアニストとしてのアルバムも今回6枚目ということになりますね。
大江 ジェットコースター人生…。ジャズデビューのアルバムは卒業記念で作った意味もあったけれど、もしアメリカでやれたらという密かな野望もどこかにありました。でも正直あの時に日本で話題になったような勢いは長く続くわけないし、アメリカでのジャズ人生、一体この先どうなるんだろうと途方に暮れていた部分もありました。
――何をおっしゃる。私はアルバムのたびにずっとインタビューをさせてもらってきて、千里さんのアメリカでの仕事において一番すごいのは、今、最高の人と組むという嗅覚、そしてそれを叶えるコミュニケーション能力だと思います。
レジェンドと呼ばれるジャズ・ボーカリスト、シーラ・ジョーダンをアイコンにしてアルバムを作られましたものね。そのアルバムで、ジョン・ヘンドリックスが作詞をしている。この間、私は渋谷でビル・エヴァンスのドキュメンタリー映画を見たのですが、彼と共演した人物としてジョン・ヘンドリックスが出てきて、びっくりしました。千里さん、凄い人と一緒に作ったんだと、じゅわーん、でしたよ。
大江 ジョン・ヘンドリックスとは、窓の外にスカイスクレーパーが見える、バッテリー・パークにほど近いご自宅に伺って詩を作りました。
ジョンが思い浮かぶ歌詞をこちらで書き留めて「ここまでできました」と伝えたら「oh…ところで、君は誰だっけ」みたいな(笑)。「僕はsenriですよ」と言ったら「おお、あの時の。そこにあるうちのピアノはセロニアス・モンクが弾いたピアノなんだけど、彼が弾いてた時、確かそこに居たよね」と。あまりの説得力で僕も一瞬「いたかもしれない」と曖昧な答えをしてから、いやいやと(笑)。…あ(正気に戻り)、それじゃあその次の行の詩、行きましょうみたいな。ジョンとの詩を作るやりとりは宝物のような時間でしたよ。
――まさにね、千里さんがそういう人たちとものを作っていくコミュニケーション能力がすごいということなのです。シーラ・ジョーダンとはどうやって出会ったのですか。
大江 シーラ・ジョーダンとはFacebookでまずつながって、僕はあなたのビッグ・ファンだから一度ご挨拶に行きたい。仕事のアイデアがあるのです、と。
ロイズの生チョコをご自宅に持参したら、その口溶け具合に驚いて「あまりに美味しいからあなたも一緒に食べなさい。そうだ、あなたのためにお茶を」と丁寧に淹れてくださった。そしてその生チョコを一緒に食べながらお茶をいただき、自分が好きなジャズの世界観をお話ししたのです。
そこで改めて「実はシーラがアイコンとなり、次の世代のシーラが大好きな人たちと、次の次の世代のシーラフリークたちを集めて、すべて曲は書き下ろしでアルバムを作りたいのです」と言いました。
彼女は一瞬沈黙し「わかったわ。来週、もう一回、そのオリジナルの曲を持って来なさい」と。それで超張り切って1週間で5曲書き上げ、彼女の部屋にあるキーボードで弾きながら、口伝えで歌いました。じっと聴いていたシーラは「わかったわ。これなら歌ってもいいわよ」と言ってくれた。そしてこう付け加えたのです。「あなたがもし、自分が思っている出来栄えと私の歌が違ったら正直に私に言うこと。その場合、私が知っている素晴らしいジャズシンガーをいくらでも代わりに紹介するから。それだけは約束して」と。緊張しました。
じゃ、準備が整い次第すぐにやりましょう、ということに。そして、そのシーラの言葉を武器にジョン・ヘンドリックスのところへ行き「今度、シーラ・ジョーダンと一緒にやるんですけど詩を書いてくれませんか」と。そしてジョンが引き受けてくれると、今度はテオ・ブラックマンに「シーラ・ジョーダンとジョン・ヘンドリックスとでアルバムを作るんだけど、あなたも参加しませんか」と。そうやって一人口説き、一人口説きって感じでこの壮大な計画のアルバムに関わってくれるブレーンを広げました。足掛け2年以上かかって「ほんとにできるのか?もう無理なんじゃないだろうか?」って感じの時間のかかり具合だったけど。準備も含めて足掛け3年ほどかかりました。