40歳の若さで乳がんで死去した、自民党の宮川典子衆院議員。「日教組のドン」に戦いを挑んで負けた後、衆院選で初当選し、 実力で地位を築きつつあった。「容姿や知名度に頼らない女性議員」だっただけに、その早すぎる死が残念だ。(ジャーナリスト 横田由美子)
初出馬は「日教組のドン」との
直接対決だった
9月12日、私の元に、衝撃的なニュースが飛び込んできた。自民党の宮川典子衆院議員が乳がんで死去したという。40歳だった。
私は、宮川議員と格別親しかったわけではない。しかし、彼女の早すぎる死は多くの意味で、私の心を揺さぶった。
宮川議員は、慶應大学を卒業し、山梨学院大学付属中・高校の教員を5年間務めた後に、平成22年(2010年)の参議院選挙で、山梨選挙区から出馬した。民主党政権下で幹事長として力を持ち、「日教組のドン」「参議院のドン」と異名をとった輿石東・現立憲民主党山梨県連合最高顧問(当時は民主党参院議員会長)の対立候補であった。 その時、私は、注目区として山梨にスポットを当てており、輿石側というよりもむしろ宮川側に立った取材を進めていた。
当時、山梨に注目した理由はいくつかあるが、最大の要因は、盤石と言われていた輿石氏の地盤が揺らいでおり、落選の可能性が否定できないという情報が入っていたことだ。
元山教祖のトップで、日教組のドンとまでいわれていた輿石氏の選挙では、毎回、怪文書が乱れ飛ぶことで有名だった。内容も同じようなもので、教職員組合の私物化、すなわち、教員を選挙に動員しているというものが多かった。
「積極的にビラをまいているのは、公立小学校や中学校の体育の教師です」
「保護者会では、暗に輿石さんへの投票をお願いされるが、それを表だって口に出す者はいない。子どもの学校での立場を考えたら、当然ですよ」
そんな、輿石批判は常態化しており、特別な事件でもない限り、記事にすることすら困難だった。その輿石氏が落選の危機、それも、政権交代後の選挙で――?
それは確かにニュースになるだろうと考え、私は、当時の自民党山梨県連などに取材を申し入れたのだった。