公共空間での
「表現の自由」

 まず、今回の騒動では「表現の自由」をめぐる複数の論点が含まれており、それぞれの是非は異なった基準で判断されるべきだったことを指摘したい。

 筆者は少なくとも、次の6つの論点があったと思う。

(1)不自由展の開催を阻止しようとした“抗議”行動は正当化されるのか。

(2)展示反対派の行動が激しくなったため、安全を考慮して展示を一時、中断した、実行委員会や愛知県知事の判断は妥当だったのか。

(3)実行委員会の会長代行であったにもかかわらず、不自由展阻止の先陣を切って会場前に座り込みなどをした河村名古屋市長の行動は正当化されるか。

(4)騒動になった後、政府が届け出上の不備を理由にトリエンナーレ全体への補助金を交付しないと決定したのは妥当か。

(5)実行委員会が個別の作品についてその概要を知ったうえで、出展の是非を判断するのは検閲に当たるか。

(6)公的資金を投入した文化的イベントでは、政治や行政は「表現の自由」の見地から作品の内容に一切、口を出すべきではないのか。

 以上の論点のうち(1)~(4)については、答えは比較的簡単だと思う。

(1)の抗議活動の正当性については、公共の場での公的資金を投入した展示なので、それに反対して、撤回を求める署名運動などをする自由があるのは当然だ。

 しかし、テロを行うと脅迫するのは犯罪である。担当部署にいやがらせの電話をかけたり、ネットへの書き込みで犯罪まがいの行為をあおったりするのは、たとえ犯罪ではないとしても、正当な抗議活動ではない。

 展示企画に反対だった保守系の知識人は、そうした行為とは一応距離を取っていたようだが、単に距離を取るだけではなく、そうした陰湿な行為は、「表現の自由」を危険にさらす、あるいは、そうした人たちのやっていることは保守派の目から恥ずべきことであり、許されないと明言し、非難すべきだった。

大村知事VS河村市長
管理能力のなさを吐露

(2)と(3)の大村知事と河村市長の言動に対する評価は、一見、対立する視点のように見えるが、実は同根である。

 いつの間にか、大村知事と河村市長の“バトル”に注目が集まることになったが、実行委員会の会長と会長代理が、騒ぎが大きくなった後で、第三者的な顔をして、「表現の自由」論争を展開すること自体がおかしい。