中曽根康弘首相とロナルド・レーガン米大統領
1983年11月、握手を交わす首相の中曽根康弘(左)と米大統領のロナルド・レーガン。二人は「ロン・ヤス関係」と呼ばれる親密な関係を築いた Photo:JIJI

 今も後悔と共に忘れられない光景がある。1982年11月30日夜、首相になった直後の中曽根康弘を、彼のブレーンで旧帝国陸軍参謀の瀬島龍三が訪ねてきたときのことだ。当時、中曽根は東京・世田谷にあった読売ジャイアンツの終身名誉監督、長嶋茂雄の家を借りていた。瀬島は紋付き羽織はかまの正装で現れた。首相番記者として質問を発した。

「何のご用で」

「総理に呼ばれたもので……」

 中曽根邸に入った瀬島は食事を共にして出てきたのだろう。その間、2~3時間はあったように思う。瀬島は中曽根が旧行政管理庁長官として担当した行政改革の推進機関、“土光臨調”を実質的に指揮していた。

「久しぶりにお会いしたので行政改革の関係でよもやまの雑談をしただけです」(回顧録『幾山河』)

 そのときは想定通りの答えに納得した。この中曽根・瀬島会談がやがてビッグニュースにつながるのだが、駆け出しの政治部記者にはそんな想像力はなかった。中曽根は歴史問題で最悪の状況にあった日韓関係改善のため、瀬島に密使として訪韓するよう要請したのだった。瀬島には韓国軍部に知己が多かったからだ。

 中曽根は自民党総裁選での勝利が見えたころから韓国語の勉強を始めていたようだ。ある晩、中曽根が「日本経済新聞社の元ソウル支局長にハングルを習っている」と、ビニールの袋に入れたテープレコーダーを見せに来たことがあった。風呂に入りながらテープを聴いているとも話していた。ビニール袋はそのためのものだった。

「ロン・ヤス関係」が
生まれた意外な理由

 新米記者の経験不足は隠しようがなかった。翌83年、中曽根は電撃的に韓国を訪問、当時の大統領、全斗煥(チョン・ドゥファン)と劇的な関係改善を実現させた。全斗煥主催の夕食会での中曽根のあいさつは冒頭と締めくくりが韓国語だった。中曽根はこのときの情景を回顧録の『天地有情』にこう書き残している。

「正面の宴席にいた韓国の女性代表が感動の涙をハンカチで覆った」

 中曽根の首相就任後、最初の外国訪問は米国と思い込んでいたメディアは完全に出し抜かれた。そして訪韓に続いて中曽根は米国訪問に旅立つ。米大統領はロナルド・レーガン。ハリウッド出身の大統領に会うために、今度はスティーブン・スピルバーグが監督した「E.T.」を鑑賞した。

 こうした周到な準備が奏功して「ロン・ヤス関係」が確立されていく。この最初の出会いで通訳だった元外務事務次官の齋木昭隆(現三菱商事取締役)が雑誌「外交」で興味深いエピソードを紹介している。ホワイトハウスのプライベートな朝食会で、レーガンがまず中曽根に提案したという。

「私のことは今後ロンと呼んでほしい。あなたのことを何と呼べばいいか」

 中曽根は初め「ヤスヒロ」と答えるが、よく聞き取れなかった。そこで齋木が小声で提案した。

「ヤスの方が短くて分かりやすいのではないか……」

 それで生まれたのが「ロン・ヤス関係」だったという。