眼でもないし、鼻でもない

 動物の発生は、卵と精子が受精した瞬間から始まる。卵や精子はただの細胞で、一匹の動物になる力はない。しかし、卵と精子が融合した受精卵は、一匹の動物になる力を持っている。したがって、私たちの人生は、受精卵から始まるのである。

 ということで、私たちは多細胞生物だが、誰しも最初は受精卵という単細胞生物だ。この受精卵が細胞分裂を始めた、発生初期の生物を胚という。発生のどの段階までを胚と呼ぶかは明確に決まっていないが、外から食物を食べるようになるまでを胚と呼ぶことが多いようだ。

 さて、発生の仕方は種によってかなり異なるが、典型的な動物の発生の仕方を見てみよう。受精卵が細胞分裂を始めてしばらくすると、胚の内部に胞胚腔(ほうはいこう)という、液体が入った空洞が形成される。この時期の胚を胞胚と呼ぶ。

 発生において、空洞は重要である。たとえば、部屋の模様替えをすることを考えてみる。

 もしも床から天井までびっしりと物が詰まっていたら、模様替えはできない。物を動かすことができないからだ。しかし、部屋の中に空間があれば、物をとりあえずその空間に移動させることができる。

 すると、物があったところに新しく空間ができるので、またそこに物を移動させることができる。

 それを繰り返せば、模様替えができる。胚の場合も同じである。胚の中に空間ができることによって、細胞がダイナミックに移動することが可能になった。

 そして細胞が移動できるから、さまざまな形を作ることができるようになった。

 その後、胞胚の表面の一か所がへこんで、内部に陥入していく。この段階が原腸胚だ。この内部に陥入した管を原腸といい、陥入が始まった部分に開いた穴を原口という。原腸はダイナミックな運動を続け、ついには胚の反対側の細胞層に達する。

 そして、そこの細胞とつながって穴が開く。つまり、中央に穴が貫通したボールみたいな形になる。この段階を成体といい、この穴が消化管になるのである。

 動物は、植物のように光合成ができないので、代わりに食物を食べなくてはならない。そして、食べた食物を消化管に入れて、吸収しなくてはならない。しかし、動かないでじっとしていても、なかなか食物は自ら消化管の中に飛び込んできてくれない。

 そこで、仕方がないから、動物の方で動くようになった。

 動き方には二通りある。消化管は両側に穴が開いているので、どちら向きに動いてもよいからだ。そこで、同じ動物の仲間でも、元々は原口だった方に動くものと、その反対に動くものが現れた。

 どちら向きに動くにしても、消化管の片方から食物が入ってきて、反対側から出ていくわけだ。この入ってくる方の穴は口と呼ばれ、出ていく方の穴は肛門と呼ばれている。

 ということで、動物は二つに分けられる。原口が口になるもの(前口動物)と、原口が肛門になるもの(後口動物)である。

 ちなみに、私たちは後口動物だ。後口動物の中の脊索(せきさく)動物の中の脊椎(せきつい)動物である。脊索も脊椎も、体を貫く棒のような構造だ。違いは材質で、脊索は有機物でできているが、脊椎は骨でできている。

 脊椎動物には魚類、両生類、爬虫類(はちゅうるい)、鳥類、哺乳類が含まれるが、もちろん私たちは哺乳類である(ちなみに、脊索動物だが脊椎動物でないものには、ホヤやナメクジウオがいる)。

 一方、エビ、カニ、昆虫などの節足動物や、タコ、イカ、二枚貝、巻貝などの軟体動物は、前口動物である。

 動物が動くのは、消化管の中に食物を入れるためだ。だから、進む方に口がある。そして、進む方を前という。つまり、口がある方が前なのだ。これが、動物が動いていなくても、前後がわかる理由だ。眼でもない。鼻でもない。口がある方が前なのである。

(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)