声と聴覚は脳内で密接に関わっています。「聴覚のフィードバック効果」といって、オーセンティック・ヴォイスを出せるようになると、みるみるうちに現実に変化が起きると言います。声によって健康面はもちろんのこと、性格から容姿まで変わってしまうそうですから、決して「声の力」を侮ってはいけません。そうした変化が起きるということは、声が人間の意識の深いところにまでつながっている証しなのではないかと私は思います。

なぜ念仏を称えるだけで「無の境地」になれるのか

「声の力」を最大限に利用して、みずからの宗教体験を深めた人として私が想起するのは、鎌倉時代に専修念仏を広めた法然上人です。

 私はもともと禅宗の僧侶だったのですが、法然さんの日本思想史上における大きな働きに注目して、アメリカ留学中に法然研究を始めました。禅のほうでも、何時間も坐禅を続け、禅定が深まってくると、幻視体験が起きることがあるのですが、すべて魔境、つまり幻覚として否定されます。

 ところが、法然さんは自分の念仏信仰の核心に幻視体験を据えていました。私はなぜそんなことが起きるのか、その理由を探り続けたのですが、その結果、彼が実践していた口称念仏には「声の力」が重要な位置を占めていることに気づきました。法然以前、平安時代にも念仏行者はいたのですが、たいていは観相念仏、つまり心の中で念仏を称え、阿弥陀の姿を想像するというやり方だったのです。

 私は最初、極めて単純な念仏を口で称え続けるだけで、なぜ法然さんが深い神秘体験が持ったのか、不思議に思いました。しかし、単純な言葉を反復することにこそ、大きなポイントがあったのです。よく知られていることですが、マラソン選手は走っているうちにランナーズ・ハイになることがあります。同じように水泳選手も、泳いでいるうちにスイマーズ・ハイになることがあります。それは単純な動作を反復することによって、意識の状態が変わっていくことを示しているように思われます。

 私も比叡山で修行中に、この不動明王真言を毎日、千遍唱えさせられました。念珠を繰りながら唱えるので、確実に千遍唱えます。あまりに激しい修行のため、いつも疲労困憊していたのですが、なぜか毎回のように七百遍ほど唱えたあたりから、自分の意識が突然変わるのを感じました。それまでの睡魔や疲労感などが完全に消え、極めて透明な世界に入っていくのです。坐禅とは異なり、真言読誦は両眼を開けたままやるので、同じお堂の中で誰が何をしているか、はっきりと見えているのですが、何も気にならないのです。