ですから、動いた野手がいた場所に打者がゴロを転がせば、理論的にはがら空きの内野をボールは抜けて、ヒットになるわけです。ただ、打席に立った時点では二塁手と遊撃手のどちらがベースカバーに入るかわかりません。そこでID野球では、先に一塁ランナーに盗塁するふりをさせる。それによって、どちらが動くかが情報としてわかる。そしてその後でヒットエンドランをかける――。このように、得た情報を利用して成功確率を上げるのです。この考え方が、1960年代のプロ野球では圧倒的なイノベーションだったわけです。

 野村選手のID野球は、現役時代を通じて心理面の研究に進化していったことが知られています。そもそも野村選手はキャッチャーなので、ピッチャーの心理もバッターの心理もよく観察できる場所でプレーしています。そして、キャッチャーにも心理があります。

自分が嫌な気持ちになるときは
相手が仕掛けて来るタイミング

 たとえばキャッチャーとしては、「ここで盗塁されたくないな」という嫌な気持ちがする場面があるそうです。そういうときに限って、敵の監督は盗塁のサインを出してくる。キャッチャーとしてそれを刺せないと、大いに落ち込みます。普通の人はそういう経験をすると落ち込むだけで終わりですが、野村選手は「ああ、こういう状況のときに自分は落ち込むんだ」と、それを情報としてメモするのです。

 ここで、情報分析が活きてきます。自分の心理が嫌な気持ちになるときがわかるようになると、相手が仕掛けてくるタイミングがわかるようになる。それでキャッチャーとしての野村選手は、相手が盗塁するタイミングを外すのが上手になっていくわけです。

 バッターなら2ストライクと追い込まれたときに、「三振するのは嫌だな」という心理でバッティングの仕方が変わる。キャッチャーの野村選手はその現象をデータで分析して、その心理に合わせた決め球を投げさせる。逆に、ピッチャーが弱気になるカウントも分析して、そのカウントにならないようにリードする。

 つまり、野村選手のID野球の凄さは、情報を集め、それを基に考えて、自分が有利になる局面をできるだけ数多く再現できるよう、野球に優位性構築の方法論を採り入れた点にあるのです。