誰かが誰かに「負債」を負ったときに、「貨幣」は生まれる

中野 ここで重要なポイントが2つあります。

 第一に重要なのは、クルーソーとフライデーの野苺と魚の取引が、同時に行われるのではなく、春と秋という異なる時点で行われるということです。だからこそ、そこに「信用」と「負債」が生まれ、フライデーが負った「負債=借用証書」が貨幣として機能しているのです。

 もしも、野苺と魚を同時に交換する「物々交換」であったならば、取引が一瞬で成立するので、「信用」や「負債」は発生しません。そして、そこには「借用証書」=「貨幣」も必要とされないということになります。

――なるほど。そう考えると、先ほどのメソポタミアの粘土板に刻まれた記録の意味もわかる気がします。神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収するとともに、彼らに財を再分配していたとのことですが、徴収と再配分は異なる時点で行われるはずですから、誰からどれだけ徴収して、その人にどれだけ再配分しなければいけないかを記録する必要がありますものね。そして、その「信用」と「負債」の記録が貨幣の起源となった、と。

中野 そうです。だから、先ほど私は、「エジプト文明やメソポタミア文明には、ある種の信用システムがすでに存在していた」と言ったのです。貨幣は「物々交換」から生まれたのではなく、「信用システム」から生まれたのです。

――つまり、こう考えてもいいわけですか? フライデーがクルーソーに「秋に魚を渡す」という負債を負ったために「借用証書」が生まれたように、誰かが誰かに負債を負った瞬間に「貨幣」は生まれる、と。

中野 そういうことですね。貨幣を創造するとは、負債を発生させることだということなんです。これは「信用貨幣論」の非常に重要なポイントなので、よく覚えておいてください。

 ただし、ここで2つめの重要なポイントがあります。

 というのは、債務を負った人は「借用証書」を発行しますが、誰が発行した「借用証書」でも貨幣として流通するわけではないからです。負債には常に、「デフォルト(債務不履行)」、つまり借り手が貸し手に返済できなくなるという可能性があります。そこには、必ず「不確実性」が存在しているのです。

 だから、誰の負債でも、貨幣として受け取られるということにはなりません。先ほどのクルーソーたちの島でも、フライデーのことを「あいつは約束を守るヤツだ」と信頼していなければ、誰もフライデーの「借用証書」を受け取らないでしょうから、貨幣として流通することはないわけです。

 つまり、デフォルトの可能性がほとんどないとすべての人々から信頼される「特殊な負債」のみが貨幣として受け入れられ、流通するようになるのです。これを、イングランド銀行の季刊誌では、貨幣は「信頼の欠如という問題を解決する社会制度である」と表現しています。

――なるほど。つまり、信用貨幣論によれば、円・ポンド・ドルなどの貨幣は、デフォルトの可能性がほとんどない政府(中央政府+中央銀行)が発行する「借用証書」だから、貨幣として受け入れられ、流通しているということですね?

中野 まぁ、一応はそう言うことができますね。

――だけど、すごくモヤモヤします。1万円札が政府の「借用証書」だとしたら、それを政府に持っていったら何かをもらえるはずですよね? クルーソーがフライデーに「借用証書」をもっていったら、魚をもらえるように……。かつての金本位制のように「金」と交換してもらえるなら、「借用証書」だと思えますが、いまはそうではないですよね?