たとえば、「利休は咲き誇っていた朝顔を摘み取るという究極のシンプル化をすることによって、茶室の一輪の朝顔を引き立てた」というのは? これは解釈としても筋が通っていますし、そう考える人は少なくないと思います。

しかし、「作品とのやりとり」という視点を入れるなら、もうちょっと別の考え方もできそうです。つまり、利休が目指していたのは「鑑賞者とともにつくり上げる庭」だったのではないでしょうか。

もし秀吉が「朝顔が咲き誇る完成された庭」を見せられていたら、どうなっていたでしょう? 彼はおそらく「おお、すばらしい!」と感動したでしょうが、それでは受け身の鑑賞で終わってしまったことでしょう。見事な花で埋め尽くされた完璧な庭は、それ以上にもそれ以下にもなりません。

では、花が摘み取られた「空白」の庭と、たった一輪の朝顔を見せられた場合は?

きっと彼は、残された「一輪の朝顔」を手がかりにして、それらが庭に咲き誇っていた様子を想像したのではないかと思います。
そうやって生み出された「想像上の庭」は、実際に朝顔が咲いていた「現実の庭」よりも、はるかに奥行きの深いものであったかもしれません。

「空白の庭」は、鑑賞者の想像によって、無限に変化し得るのです。

《松林図屏風》の前に座ると、なにが起こるのか

ロランが描いたルネサンス期の風景画は、「朝顔が咲き誇る完成された庭」に似ています。
細密な描写による美しい風景画は人を感動させますが、鑑賞者が想像を膨らませる余地はあまり残されていません。

一方、《松林図屏風》は、朝顔を摘み取ってしまったあとの「空白の庭」に似ています。

実際にこの絵が飾られているところを想像してみましょう。
《松林図屏風》は、2隻が対になった屏風です。
高さは約1.6メートル、当時の日本人の平均的な身長より少し高い程度でしょう。
幅は1隻が3.6メートル、かなりの長さです。ただし屏風を立てる際には蛇腹状に少し折り曲げるので、実際にはもう少し短くなります。

当時は、テーブルや椅子は一般的ではありませんから、鑑賞者は屏風が立っているのと同じ畳に直接腰を下ろして、この絵を眺めることになります。下から見上げるような格好になりますから、屏風はさらに大きく感じられることでしょう。
すると、まるで自分がこの風景のなかに入ったかのような感覚に襲われます。

ひんやりとした空気が身体を包みます。
ここは深い森でしょうか。
息を吸い込むと、土や苔の湿った匂い。
どこかで、鳥の鳴き声もします。
木々のあいだから光が差し、松の緑が鮮やかに輝きはじめます……。

これは「私の鑑賞」でしかありません。実際に《松林図屏風》に描かれているのは、モノクロで部分的に描かれた松の木だけです。大部分は「空白」で構成されており、それ以外に手がかりはありません。
しかしそうであるがゆえに、鑑賞者による十人十色の想像を可能にします。