片山 研修所が設立されたのは、諸外国との交渉場面で、日本の外交官の外交能力、外交センスの不足、体制の不備を痛感する出来事が何度もあったからです。
たとえば、第一次世界大戦後の1919年1月に始まり、ベルサイユ条約まで続くパリ講和会議では、戦後処理や、国際連盟、経済、交通、労働問題など幅広いテーマについて80もの委員会で交渉が行われましたが、日本の全権代表団は、手分けして会議に出席し、記録を取るだけで精いっぱいだったといいます。語学力が不足していたり、外交交渉に慣れていなかったりしたため、ほとんど活躍できませんでした。それで、諸外国から「サイレント・パートナー」という不名誉なあだ名をつけられることになってしまったのです。
その際、全権代表団の一員として会議に出席していた若手の外交官たちは、自国の外交能力の不足や不甲斐なさに危機意識を持ち、外務省改革を発意しました。しかし、その努力で小さな前進はあったものの、法令に基づいた本格的な外交官養成のための研修所設立には至りませんでした。
そして1930年代から第二次世界大戦に至る過程では、満州事変、国際連盟脱退、日中全面戦争、日独伊三国軍事同盟、南部仏印進駐、真珠湾攻撃と、国家の命運を左右する重要な岐路において、ことごとく国際情勢の流れを見誤りました。
この苦い経験を踏まえ、戦前の日本外交についての深い反省から、外交センスを養う必要性を痛切に感じた当時の幣原喜重郎首相、吉田茂外相の英断があり、先人たちの強い思いが研修所設立という形で、結実したのです。
私自身、1983年の入省直後に4カ月の研修を受けたのをはじめ、外務省生活の中で何度か研修所にはお世話になりました。研修は実務の「黒子」ですが、日本外交を担う中長期的人材養成は死活問題です。優秀な人をきちんと育てることが日本の外交パフォーマンスを左右し、ひいては日本の国益をも左右します。40年近くの外交官実務を経て所長として研修所に携わることができたのは大変感慨深いことでした。