若宮:アートとビジネスを混ぜるような活動をしたり、アート思考の本を出したりして、それと時を同じくしてあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」のような騒動が起こり、その中ですごく考えたことがあるんです。
美術教師/東京学芸大学個人研究員/アーティスト
東京都出身。武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。東京学芸大学個人研究員として美術教育の研究に励む一方、中学・高校の美術教師として教壇に立つ。「絵を描く」「ものをつくる」「美術史の知識を得る」といった知識・技術偏重型の美術教育に問題意識を持ち、アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いたユニークな授業を、都内公立中学校および東京学芸大学附属国際中等教育学校で展開してきた。生徒たちからは「美術がこんなに楽しかったなんて!」「物事を考えるための基本がわかる授業」と大きな反響を得ている。彫金家の曾祖父、七宝焼・彫金家の祖母、イラストレーターの父というアーティスト家系に育ち、幼少期からアートに親しむ。自らもアーティスト活動を行うとともに、内発的な興味・好奇心・疑問から創造的な活動を育む子ども向けのアートワークショップ「ひろば100」も企画・開催している。著書にベストセラーとなった『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』がある。
僕はビジネスをメインにやっている起業家です。アートの研究はしていたけれども、自分はアーティストではありません。自分自身ではクリエーションをしないので、そういう人が「ビジネス×アート」みたいな話をした時に、アートをメインに活動されている人たちからの反発もあって。この背景には、近代アート以降の「アートは何かの役に立つものではなく、自律的な価値を持っているべき」という価値観の影響もあると思います。でも一方で、あいちトリエンナーレの時のように、「税金を使うんだから何かの役に立つべきだ」みたいな言い方をされたりする。
僕はビジネスの側にいますが、ビジネスでは「役に立つものを作る」というのは自明のことです。でも、「役に立つ」を追い求めすぎると、課題解決思考の結果みんな同じようなソリューションになってしまったり、あるいは「売れる商品しか作りません!」みたいな既存価値の再生産ばかりになっていく。
このようにビジネス側からは、アートも「役に立たない」と切り捨ててしまうことがよくあると思います。ただ、近代以前はアートも「パトロンが気持ちよくなる絵を描く」とか「宗教を広めるために作品を作る」とか、「何かのためのアート」だったりもしたわけで、アートの純粋性や自律性だけを言い続けるのもある種の幻想なのかなと。
この「アートはビジネスに役立つと思いますか」っていう問いかけをした時に、ビジネス側もアート側もザワッとする状況があるんですが、僕も今の末永さんの答えにすごく共感するのは、アートは何かの役に立たなきゃいけないということはないし、また役に立ってはいけないっていうものでもないんですよね。基本的には、便益があるかどうかではなくて、自己の探求の方が先にあって、それでできたものが副次的に誰かの役に立つということなのかなと思います。
末永:自分で言うのもおかしいのですが、今回書いた本も私の中ではアートだと思っていて。というのは、この本は「アート思考で現代社会における課題を解決しよう」とか「アート思考を身につけることでこんな効果があるからそれを実証するために書こう」とか、そういった課題・効用が先にあって書き始めたわけではないんです。
むしろ反対で、私が教員として、また一人のアーティストとして、これまで何となく抱いてきた疑問や、私自身の興味をもとに学校で日々実践してきたこととか、そういったものすごく個人的な想いをもとに書きました。それらが、タネや根の部分です。それがある時、自分でも全然予想していなかったタイミングで花(=本)を咲かせた。それが役に立つか立たないかは分からなかったけど、結果的に振り返ってみると、この本を出してから多くの人から「今の時代に役に立つ」と言ってもらえたんです。
若宮:わかります。僕がアート思考の話をするときに、色々な人からアートには「問いを生む」や「課題提起をする」力があるって言われたりもするんですけど、それには少し違和感があるんですね。社会に対して課題を提起しないとアートじゃないみたいな先入観があって理由付けをしている、というか。
アートは「問い」でないといけないとか、社会への批判でないといけないとか、もちろんそういう側面もありますが必要条件でも十分条件でもないと思っていて。「アート」っていうと新奇性が大事だとか社会に対するアンチテーゼ、つまり逆張りですねと言われることもあるのですが、「アート思考は逆張りではなくて、究極の順張りです」という話をします。つまり、アート思考は社会を批判するためではなく、自分にとってはすごいナチュラルなものがまずあるんです。それはただの偏愛とも言えます。例えば、ヘンリー・ダーガー(アメリカのアウトサイダー・アートの代表的な作家)が誰に見せるわけでもなく、ずっと絵を描いているみたいな感覚です。もちろん誰にも発見されなければアートの価値は生まれませんが、第一義として自分の探究としてつくられたものもアートだと思いますし、「社会に対しての課題提起」の部分だけを言い続けられることに少し違和感があるんです。
そういう課題提起や影響を目的とせずとも、今日の末永さんの授業であったように「探究」のプロセスを経て咲いた花があって、そこからまた他の花に受粉し、その人の種を発見のきっかけになり、僕はそのようなことを触発と呼んでいるのですが、そうやって広がっていくと良いなと思っています。
末永:そうですね。私はその広がりに「綿毛」のようなイメージを持っています。花が咲くところまではその花が小さくても大きくても、自分だけのための花でもいいんですけど、それがどこかのタイミングで綿毛になって多くの人に届いたり、またそこから新しい芽が出てきたり、そんなふうにして広がっていくのかなって考えています。