トヨタ自動車社長/豊田喜一郎

 今回は、いつもとは趣向を変えて、インタビュー記事ではなく、創業間もないトヨタ自動車の取材記事をお届けする。

 豊田佐吉が創業した豊田自動織機の社内に「自動車部」が設けられたのは1933年のこと。35年に自動車製造を開始し、37年にはトヨタ自動車工業として独立した。その翌年に掲載された、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉による同社の取材記事だ。

 登場するのは佐吉の長男である豊田喜一郎(1894年6月11日~1952年3月27日)。トヨタ自動車の初代社長は佐吉の娘婿で喜一郎の義兄に当たる豊田利三郎だが、自動車部の頃から事業の中心となっていたのは喜一郎である。喜一郎は41年に第2代社長となり、実質的な創業者と位置付けられている。

 喜一郎の話からは、草創期の苦労ぶりが伝わってくる。なんとか自動車の製造自体はできるようになったが、「滑らかに動く」ための精度の点では、まだ米国のフォードやシボレーの水準には及ばない。喜一郎によれば「織機の誤差は、1000分台で足りるが、自動車となると、万分台に進む」という。精度の桁がひとつ違うのである(尺貫法で1分=10分の1)。

 そして、精度を高めるには部品の材質がカギを握るのだと説明する。「外国から機械さえ買えば、形はどういうものでもできます。しかし形ができても、使ってガタつけば駄目です。ここにおいて材質の研究が必要になるのです」(喜一郎)。

 この取材で筆者の石山は、前年に竣工したばかりの本社工場も訪ねている。工場は「挙母町」にあり、60万坪という敷地には、まだわずかにしか建物が建っていないが「ゆくゆくは、その土地いっぱいに工場が建設されるのである。その暁は、さぞ雄大のものとなろう」と、筆者は未来に目を向けている。

 当時、挙母町は、かつて町を支えた養蚕・製糸業が下火になり、トヨタの工場誘致を機に再びの繁栄を目指していた。その通り、トヨタの成功とともに町も成長を遂げ、51年に挙母市に昇格。そして、59年には豊田市へ改称する。いまや、愛知県では名古屋市に次ぐ人口を誇る、トヨタの城下町に発展した。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

自動車の難しさは
製作よりも材質

1938年10月1日号
1938年10月1日号より

 名古屋に出張して、豊田自動車を訪れた。豊田自動車は、今日までにどれだけ発達したか。それを知りたいためであった。

 豊田自動車は、昨年以来独立した会社になった。会社名は豊田自動車工業株式会社というのである。社長は、豊田喜一郎氏である。

 喜一郎氏は、先代豊田佐吉氏の長男、帝大出の工学士である。おやじの血を受けて機械製作に深い趣味と造詣がある。つとに自動車の製作を志し、近年これに没頭しているのだ。

 私は、喜一郎氏に対して、
「自動車の製作は、どういう点が難しいですか」
 と尋ねた。すると、これに対する喜一郎氏の答えは、
「製作よりも材質です」
 ということであった。

 豊田自動車は、製作にはだいたい成功し、今は材質の研究に進んでいるのである。