――などということを長々と言ってはみたが、もちろん本気でこのような対策ができるとは思っていない。これだけ多くの人が死んでいても、日本人にとって「熱中症」というのは、経済活動を止めてまで対策をとるようなものではないのだ。

 誤解を恐れずに言ってしまうと、同じ「死」でも重みがまったく違う。新型コロナで亡くなることは「経済を止めてでも避けなくてはいけないこと」だが、熱中症で亡くなるのは「ある程度はしょうがないこと」という感じで、かなり軽く受け取られているのだ。

熱中症のリスクは
日本でなぜ軽視されるのか

 なぜこうも、われわれは熱中症のリスクを軽視しているのか。いろいろなご意見があるだろうが、筆者はその根底に、日本人が「暑さで倒れる」ということに慣れ切っていること、もっと言えば、「夏なんだからそういうこともあるよ」という、どこか当たり前のことのようにそれを受け入れていることが、大きな理由としてあるのではないかと思っている。

《子供の熱中症死を続出させる「根性大国ニッポン」の狂気》(2018年7月26日)という記事の中で詳しく述べたが、実は日本人が「夏になると熱中症でバタバタと人が死ぬ」という状況に慣れたというか、「日常風景」として受け入れるきっかけとなったものがある。

 それは軍隊だ。

 戦前の軍隊では、体の弱い兵隊がバタバタと脱落をすることを折り込み済みで、炎天下の訓練をしていたので、よく当時の新聞でも、「日射病で何人死んだ」などという報道もされていた。

 それは、もちろん問題にはならない。「重傷も癒す精神力 戦場の将兵は科学を超越する」(読売新聞1940年12月28日)などということを大真面目に語っていたことからもわかるように、「日射病だ、熱中症だ」というものは心を鍛えればたやすく乗り越えられる、という考えがあったからだ。そして、この「人を鍛える際に暑さで倒れるのは当たり前」という思想は、軍隊から企業、学校という形で、日本社会へ瞬く間に浸透していったのだ。

 そんな日本人の熱中症への誤った認識が、「暑さでバタバタと人が死ぬ」ことをそれほど恐れない社会をつくってしまった、と筆者が考える最大の理由が、太平洋戦争時の「バターン死の行進」だ。