フィリピン侵攻作戦を行っていた旧日本軍が、投降した米軍兵士たちをバターンからオードネルというところまでおよそ100キロ歩かせた行軍のことで、米軍側に多くの死者が出たことから、アメリカ側はこれを「虐待」としている。

 もちろん、日本側はそんなつもりはなかった。それどころか、憎き鬼畜米英だが捕虜ということで、それなりに優しくて扱って、無理しない程度に歩かせたと主張した。

強い兵士をつくるための訓練が
生んだ「バターン死の行進」の悲劇

 では、なぜこういう行き違いが起きたのかというと、日本軍が「熱中症」への恐怖が麻痺していたからだ。日本軍の行軍訓練は超ハードで、炎天下にぶっ続けで歩かされて、体の弱い兵士がバタバタと倒れるのが「当たり前」だった。

 このあたりは、実際にフィリピンで終戦を迎えて、捕虜収容所で米兵からバターンでの非道な扱いについて文句を言われたという、山本七平氏の話がわかりやすい。

《日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。》(一下級将校の見た帝国陸軍 文春文庫)

 つまり、当時の日本軍にとって「熱中症で倒れる」というのはまったくの想定内で、むしろ強い兵士をつくるために乗り越える試練の1つとして、訓練のカリキュラムに組み込まれているほどのものだったのだ。

 しかし、捕虜になった米軍兵士たちは、そんな狂った訓練は受けていない。米軍の訓練はスパルタだが、根性を鍛えるという理由だけで炎天下を延々と歩かせたりはしない。しかも当時のアメリカは、モータリゼーションの台頭で自動車で移動することも多かった。