大切なものが打ち砕かれたような「挫折」

 そして、連載第4回で触れた「国際コンピューターアート展」に行ったのは、ちょうどこの頃だ。この「国際コンピュータアート展」で知り合った人々におおいに刺激を受けた僕は、自分がやりたいことを実現するには東京に出てこなければダメだと思った。

 そして、理系で一番になったことでついた自信にも後押しされて、僕は志望校を東大理一に変更したのだ。もちろん、超難関だから猛勉強をした。そして、間違いなく合格できると確信をもったから、東大理一以外は一切受けなかった。試験はよくできたと思った。

 合格発表の日、僕は東京大学駒場キャンパスのグラウンドにいた。

 受験番号が貼り出されると、理一の合格番号の中に自分の受験番号を探した。周りでは歓声を上げる人がいたり、無言で足早に立ち去る人もいた。僕は、気持ちを落ち着けて、自分の受験番号を探した。しかし、理一の掲示板には、自分の受験番号を見つけることはできなかった。血が引くような気がして、「嘘だろ?」と思った。何度も何度も受験番号を探したが、なかった。

 ワラをもすがる思いだったのだろう。コンピュータがエラーを起こして、他の学部の掲示板に表示されているかもしれないと思った。文一、文二、文三、理二、理三とすべての掲示板を何度も見て回った。しかし、どこにも僕の受験番号はなかった。自信があっただけに、大切なものが打ち砕かれたような気がした。どうやって、神戸の実家まで帰ったのか記憶がないほどだった。

「天才・西和彦」と呼ばれた男は、高校時代に「おバカ」と思われていた!?西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo