真藤恒・NTT社長
「週刊ダイヤモンド」1987年7月4日号に掲載された真藤恒(1910年7月2日~2003年1月26日)のインタビューである(聞き手は文化精神医学者の野田正彰)。真藤は、石川島播磨重工業(現IHI)の社長、旧日本電信電話公社(電電公社)の最後の総裁、日本電信電話(NTT)の初代社長・会長を務め、両社の企業変革を推し進めたことで知られる。

 インタビュー冒頭で真藤は、出身地の福岡県では“村の殿様”とまでいわれた大地主の家に生まれながら、自身が小学生の頃には真藤家の財政は逼迫しており、屋敷もなくなって貧乏生活に入ったと明かしている。“お家再興”は真藤に託され、そのプレッシャーの中で生きてきたという。

 幼い頃はいたずら好きなわんぱく小僧だったが、中学から高校、大学、そして就職に至るまで、自己を抑制しながら、品行方正な模範生徒に徹していた。「学校の勉強以外に、機械いじりに凝るとか、何かに熱中して本を読みあさるとかいうことはなかった。いろいろしたいことはあったけど、自分であまりはみ出さないように抑えていたんです。家庭の事情が事情でしたから、そういう欲求も湧かないくらいに抑えておったんです」。

 後に「ドクター合理化」と呼ばれるようになる真藤の、現場と密着して粘り強く改良を重ねていく企業変革の手法は、そうした成育過程が大いに関係していると思われる。そこには取り立てて新奇な発想はない。

「根底から変えるなんて、観念の遊びであって、できやせんですよ」と真藤は語る。「生産現場の改良は、ポイントをつかまえて設計から直し、全体の流れの中で一つ一つの現場を改善していくという方法を取らなきゃ駄目なんです。抵抗を気にしていたら何もできないし、理論的に説得する力があるかないかの問題だけです」と、合理的現実主義者は淡々と話している。

 石川島播磨重工業では「シントー型」と呼ばれるイージーオーダーの低コスト船を実現。徹底的な生産性向上とコスト削減によって同社を業界最大手に押し上げた。そして、同社の先輩で元祖「ミスター合理化」と呼ばれた土光敏夫(当時経団連名誉会長)の要請で、電電公社の総裁に就任。官僚意識の強い33万人の職員に、コスト感覚や競争意識などを植え付ける体質改善を断行し、同公社を民営化に導いた。そして85年4月、NTTの発足とともに初代社長に就いた。

 しかしながら、このインタビューから間もなく、江副浩正・リクルート会長(当時)がリクルートコスモスの未公開株を政財界の有力者に贈与したリクルート事件が露見する。真藤も未公開株1万株の譲渡を受けたことが発覚し、88年12月にNTT会長を引責辞任する。翌89年には、NTT法違反容疑で逮捕され、懲役2年執行猶予3年の刑で結審した。以降、公の場からはほとんど姿を消す。それまでの数々の功績がかすんでしまうほど、晩節を汚す結果となった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

真藤家の再興の役目が
のしかかっていた幼少期

1987年7月4日号1987年7月4日号より 

――1910(明治43)年、福岡県久留米生まれ。村の開拓の家系。“村の殿様”とまでいわれた大地主から没落した真藤家の総領は、幼少の頃から家再興の役目を背負い、苦学しながら明善高校、九州大学に進学する。

 屋敷が残っていたのは、小学校に上がるまで。後は落ちる一方。祖父の時代に、財政は実質的に壊れてたんだ。大地主で、日露戦争後に陸軍が営地として買い上げた。にわか大金持ちになり、経営能力もないのにいろんな会社をつくったり、ろくに調べないで大きな銀行を買い取ったり。みんな裏目に出て、父親が養子に来たときはなんの資産もないかたちだけの旧家になっていたらしい。