人間は復活する?

 イエス・キリストは復活した。復活は奇蹟である。復活した人間は、いまのところイエス・キリストだけである。

 福音書(ヨハネ11章)には、イエスがラザロを復活させる話がある。旧知のラザロが、病気で死んでしまった。イエスは墓の前で命じる、出て来なさい。するとラザロが、生き返って墓から出て来た。

 これは復活(奇蹟)ではあるが、永遠の命をえたわけではない。ラザロはやがて年をとって死んでしまったろう。イエスの復活は、永遠の命をえてよみがえったので、もう死ぬことはない。このように復活したのは、イエスだけだ。

 イエスが復活した。これが、福音(よい知らせ)である。神は、つまりイエスは、誰がいつ生まれ、いつ死ぬか、完全にコントロールしている。人間は神の命令で、生まれ、死ぬのである。よって、すべての人間に、復活しなさいと命令することができる。

 人間はすべて、復活するのか。復活すると信じるのが、キリスト教である。イスラム教は、イエスが復活したとは考えないのだが、復活を信じる。アッラーが、人間に復活を命じるとクルアーンに書いてあるからだ。

 復活するのなら、人間の行動が変わる。さんざん悪いことをしたあと、死んでしまえばもう罰せられないのなら、神の支配は不完全になってしまう。死んでも復活するから、罰を逃れられない。神の主権が完全であるためには、人間は復活しなければならない。

イエスの教え

 福音書で、イエスはどう教えているか。イエスは神への祈り方を教える。「主の祈り」だ。「み国が来ますように。」英語ではThy kingdom come.(神の王国が来ますように。)である。

 神の王国は、神が人びとを直接支配すること。神がそのうち地上に、神の支配をうち立てることだともとれる。キリスト教はこの箇所を、最後の審判のあと、地上ではないどこかに「神の王国」を築く約束だと理解する。復活した人びとが、そこに招かれる。

 命についてはこう言う。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしない。だが、天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値があるではないか。思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6章)

 生き物も人間も、神(天の父)が養っている。寿命も決めている。くよくよするだけ無駄である。神を信じ、神に任せて、日々を送るのがよい。

 またこう言う。雀の「一羽さえ、天の父の許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛も一本残らず数えられている。」(マタイ10章)髪の毛が一本残らず数えられているのなら、細胞がひとつ残らず、DNAが一本残らず数えられている。

 金持ちの畑が豊作だった。「さあ、蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう。」だが神は言う、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」自分のために富を積むより、神の前に豊かな者になりなさい、とイエスは教える。(ルカ12章)

 イエスの教える「主の祈り」は、「今日もこの日の糧をお与えください」と祈る。明日の糧までは求めない。資源は有限で稀少である。誰もが明日の糧を、来年の糧をと求めれば、貧しいものはもっと貧しくなり、苦しむだろう。今日の糧だけを求め、あとは神に任せるのが、神の主権を信じるということなのだ。

神の王国とは

 では、「神の王国」とは、どういうところなのか。イエスの語る断片をつなぎ合わせてみる。

 まず、地上と違って、家族がない。人びとは復活して、永遠の命を与えられ、もう死なない。だから、生殖も必要ない。よって、男も女もない。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マルコ12章)夫婦関係は解消され、元夫/元妻として、兄弟姉妹のように暮らすことになる。

 つぎに、地上と違って、経済がない。永遠の命を与えられたら、もう食べることも、生理的な必要もなくなる。食事をしないし、老いることもない。人びとに必要な物資を届ける活動、すなわち経済がなくなる。労働も分業もなく、貨幣もなく、金持ちも貧乏人もない。

 さらに、地上と違って、政治もない。神の王国では、神が人間を直接に支配する。人間が人間を支配することはもうない。だから、政治が存在しない。争いや戦争はなく、平和である。

 家族も、経済も、政治もないので、人間の社会生活の大部分はなくなってしまう。神の王国はそうした場所だ。これがキリスト教の場合。イスラム教の場合は、天国(緑園)のすばらしい様子が具体的にクルアーンに描かれているのだった。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)