「フランス国債市場の動向を頻繁に推測しているような、グローバルなヘッジファンドのマネージャーのほうが、つけ入る隙は多いだろう」とシモンズは語っている。
しかしラウファーは、メダリオンの目を見張る運用成績の理由を少し違うふうにとらえていた。自分たちがどこから金を奪い取っているのかぜひ知りたい、とパターソンから尋ねられたラウファーは、市場動向の予測に過度な自信を持っていて過剰に取引しているトレーダーたちだと指摘した。
「よくいる歯医者みたいなもんだよ」とラウファーは言った。
口から出任せのようにも聞こえるが、ラウファーのこの見方はシモンズと同じく深遠で、革新的でもあった。当時ほとんどの学者は、市場は本来効率的であって、市場を上回る収益を上げる確実な方法など存在せず、お金に関する一人一人の意思決定はおおむね合理的であると信じ切っていた。だがシモンズと同僚たちは、そのような学者の考えは間違っていると感じ取った。投資家は認知バイアスに流されやすく、パニックやバブル、ブームや不況を引き起こしかねないと考えたのだ。
シモンズは知らなかったが、ちょうどこの頃、のちにこの直観を裏付けることになる新たな系統の経済学が産声を上げていた。1970年代にイスラエルの心理学者エイモス・トべルスキーとダニエル・カーネマンが、個人がどのように決定をおこなうかを研究し、ほとんどの人は非合理的に行動しがちであることを明らかにしていた。その後、経済学者のリチャード・セイラーが、心理学の発想に基づいて投資家の異常な行動を説明し、個人や投資家の認知バイアスを探究する「行動経済学」という分野の発展の口火を切った。
特定された認知バイアスには次のようなものがある。投資家は一般的に損失の痛みを利益の喜びの2倍強く感じるという「損失回避」。最初に持っていた情報や経験によって判断が歪められるという「固着」。投資家はすでに自分のポートフォリオに含めている投資商品の価値を過剰に見積もるという「授かり効果」などである。
カーネマンとセイラーはのちにこの研究でノーベル賞を受賞する。そうして、投資家は思ったよりも不合理に行動して、似たような間違いを繰り返し犯すものだという共通認識が広がった。投資家はストレスに過剰に反応して、感情的な決定を下す。金融市場が大混乱しているさなかにメダリオンが最高の収益を上げたというのは、おそらく偶然ではなく、その後何十年にもわたって同じことが繰り返されていく。
シモンズもほとんどの投資家と同じく、ファンドが荒波をくぐり抜けている最中には神経質になった。稀ではあるが何度かは、衝動的に会社のポジション全体を減らすこともあった。しかしたいていは、直観に頼って投資していた頃の失敗を思い返して、トレーディングモデルを信じつづけた。モデルを覆すことは断固として避け、メダリオンの運用成績や社員の感情がファンドの行動に影響を与えないよう努めた。
「PLは入力にしない」とパターソンは言う(PLとは、投資業界の言い回しで「損益」という意味)。「俺たちはトレーダーとしては二流だが、俺たちのシステムがいわば恋人を乗せてオールを漕ぐことは絶対にない。そういう行動が市場にパターンを生み出しているんだ」