人の心を動かすのは、結果や記録ではなく「選手そのもの」

──ということは、むしろこのコロナ危機はその壁を乗り越えるチャンスかもしれない、と。

末續:チャンスにできると思います。傲慢な言い方かもしれませんが、スポーツって本当は言葉で説明しなくてもちゃんと伝わるんです。人の感情が入り込んだものこそがスポーツの神髄であり、人はそこに感動するからです。

 例えば、水泳の池江璃花子選手は、白血病という厳しい試練を乗り越えて、また泳ぎたいという思いで再びプールに戻ってきましたよね。彼女は闘病中、「自分は何のために泳ぐのか」。もっと言えば、「何のために生きるのか」と、何度も自分に問い続けていたと思います。

 競技の再開は、もしかしたら彼女の体にはまだ負担かもしれないし、泳ぐ力も病気の前のような状態には戻せないかもしれない。けれどそれでも彼女は水泳が何よりも好きで、メダルやお金、名声のためではなく、自分が泳ぐことで、同じように苦しい経験をしている人たちの希望になりたいと強く思っている。

 だから今、彼女がどんな泳ぎをしても、みんな応援したくなるじゃないですか。普段は注目されないような小さな大会であっても、彼女が泳ぐなら観たくなる。これがスポーツと社会との真のコミュニケーションだと思うのです。

 そうしたアスリートの強い決意と情熱は、仮に無観客で画面越しであっても、必ずその感動は世界中に伝わり、これまでの歴史に残る様々な名シーンのように人々の記憶に留まるはずです。

末續慎吾

──実は私たちは、スポーツの結果や記録に感動しているというよりは、それ以外のところから感動をもらっているのかもしれませんね。

末續:本来、スポーツというのはそうあるはずです。北島選手も有森選手も、メダルが何色だったか、どの大会だったかまでは覚えていなくても、あの時の彼らの心から湧き出る感情に、私たちは勇気や感動をもらいました。

 ところが最近は、商用的な部分ばかりが前面に押し出され、選手のコメントも紋切り型の内容が多い気がします。スポンサーやファンの顔色を忖度してしまうと、エモーショナルな部分が見せにくくなっているのかもしれません。

 来年のオリンピックは、このコロナ禍が完全に収束し切れないまま迎えることになるかもしれません。でもだからこそ僕は、アスリートたちが「何のためにやっているのか?」と自分の内面にしっかりと向き合った結果、これまで社会が彼らに施してきたメッキを削ぎ落とし、一人の人間としてありのままの姿を見せられる、真のオリンピックになるのではないかと期待しています。

──コロナという災が転じて、アスリートが本来の「自由」を取り戻すということですね。

末續:そうあって欲しいですね。この危機的な状況にこそ、彼らには素直な感情を、魂の部分を、もっとストレートに表現して欲しい。それは間違いなく観ている人たちの心にも響き、励まし、社会に感じる不自由さや鬱積から解き放ってくれることでしょう。