1924年9月11日にシュンペーターはビーダーマン銀行頭取を辞任し、ウィーンのアパートで暮らしていた。定収入はない。見かねた友人たちが原稿料を稼ぐ方法を紹介していたという。3か月後の12月15日、原稿執筆しかやることのなかったシュンペーターを、留学中の日本人経済学者が訪ねた。
その日本人とは、東京帝国大学経済学部助教授・河合栄治郎(1891-1944)である。シュンペーターは41歳、河合は33歳だった。
ここまでのシュンペーターは、20代で代表作『理論経済学の本質と主要内容』(1908)、そして『経済発展の理論』(1912)を著し、「企業家によるイノベーション」を機軸とする独自の体系を確立している。ウィーン大学私講師からチェルノヴィッツ大学教授、グラーツ大学教授を経て、30代後半はドイツ社会化委員会委員、オーストリア共和国財務大臣、そして銀行経営者まで経験しているのだから、ドイツ圏ではほぼ頂点まで駆け上がったわけである。
しかし、銀行経営者として失敗し、けっきょく巨額の借金を抱えることになってしまった。河合栄治郎が訪問した1924年12月の時点では浪人である。その後のシュンペーターの人生は四半世紀残されている。この間、彼は教育者として活躍することになるのだが。
浪人シュンペーターを尋ねた
日本人・東大助教授河合栄治郎
河合の訪問の目的は、シュンペーターを東大経済学部の外国人教師として招聘することにあった。大学教員への復帰を最初に申し入れたのが日本の東京帝国大学だったのである。
日本では1918年12月の大学令により、学部を大学の要素とし、公立・私立大学の設置を認める学制改革が実行された。翌1919年4月より東京帝国大学は分科大学を学部と改称し、総合大学となった。同時に、経済学科と商業学科が独立して経済学部が誕生している。東京帝国大学法科大学経済学科と商業学科が、東京帝国大学経済学部として新しく発足したのである(★注1)。
河合栄治郎は1915年に東京帝国大学法科大学を卒業して農商務省に入るが、1919年に上司と衝突して退官、翌1920年に発足2年目の東京帝国大学経済学部助教授として採用された。当時、文部省は助教授を留学させ、帰国後に教授へ昇進させるキャリアパスをつくっていた。河合助教授も1922年11月より留学のため英国に滞在していた。