心不全にも緩和ケアが必要
大森:心不全はステージAからDまであります。息苦しいなどの症状が出たときに初めて心不全と告知されます。がんと違って、心不全は結構あっさり伝えられます。患者さん自身も「ああ、心不全ね」といったように、受け入れは比較的悪くない印象です。だから病名を告知しないという状況はまれです。本当は大腸がんより予後は悪いんですけれど。
後閑:言葉の印象が悪くないのかな。
宮崎:そうだと思います。「高血圧」とかに近いのかも。
循環器病棟の看護師さんが、がんの告知に立ち会うことがあったんですが、「心不全ではこんなに深刻な場面になることはない」と言ってました。患者さんは心不全を死ぬ病気と思っていないので、「あなたはがんです」と言われるのと、「あなたは心不全です」と言われるのとでは全然重みが違うって。
後閑:心不全は予後よくないというか、良くなったり悪くなったりを繰り返して弱っていくイメージですが、予後の告知に気をつかっていることはありますか?
大森:その方の治療が限界にきて、これはもう予後が限られたと主治医が感じる頃には、すでに予後を本人に伝えることができないということが多いです。なぜかというと、本人は呼吸困難などの症状で苦しんでいて、そんな話を聞いてられるようなコンディションでないことが多いからです。ぼく自身、あるべき姿としてはやっぱりある程度落ち着いている一方で、予後が限られるようなときに、原則本人を交えた説明が必要だと思っています。
後閑:心不全の予後も説明するタイミングが難しそうですね。早すぎても本人はイメージがわかないでしょうし、遅すぎれば考えている余裕がないでしょうし。
大森:良くなったり悪くなったりを繰り返すので、医療者も患者側もだんだん悪い状況に慣れていってしまうんです。「今回も治療がきつかったが、退院できた。まあ、また次があっても退院できるだろう」みたいに思ってるうちに、悪化して突然死してしまい、「こんなはずじゃなかった」となることが少なくないです。緩和ケア病棟とは違うと感じるのが、急性期となって突然亡くなってしまっても、グリーフケアがなかなか実施できない。集中治療室で亡くなることも多いのですが、スタッフは忙しく、家族が悲しむことができる場所もあまり用意されていません。
家族から出る言葉
「やっとラクになったね」
後閑:聞いていて思い出したのですが、徐脈で意識障害起こした90代の女性にペースメーカーを入れたことがあります。その息子さんがお母さんから、心不全の呼吸の苦しさもだけれど、腰が痛い、歩けなくなったといって、「死にそびれた。こんなにつらい思いを毎日しなくちゃいけないんだったら、どうしてあそこで死なせてくれなかったんだ」と言われるのがつらい、と言ってました。息子さんとしては、意識がなくなったから救急車を呼んでしまったんだけれど、あそこで本当は死なせてあげればよかったのかな、って……。
大森:そう思っちゃいますよね。
後閑:だから心不全の患者さんの家族は、たとえ急に亡くなってしまったのだとしても、「ああ、ようやく逝けたんだな」と思ってホッとしてるのかもしれないと思うことがあります。心不全で挿管したあとに苦しがってる患者さんを見て、息子さんが「挿管なんてしなければよかったのかな」と悩んでいた中でお亡くなりになったというのもありました。助けてしまったことに対する家族の葛藤もあるのかなと。ですから、亡くなったことが逆に救いになるというか、ようやく苦しみから解放されたね、。ということもあるのかなと。
大森:それは確かにあるかもしれません。「やっとラクになったね」という言葉が、がんよりもご家族の口から出やすい気がします。
後閑:がんで亡くなる方は、わりと最後まで痛みが緩和されているように感じますが、心不全で亡くなる方には苦しそうな場合が多いので、亡くなった後に「やっとラクになったね」と医療者でも思ってしまうのかもしれません。
大森:心不全の呼吸困難に関しては、医療用麻薬を使い慣れていない循環器内科医も多いですし、症状緩和に関する知見があまりないんですね。「治療か死か」みたいな限られた文脈の中で治療をしていくことが多く、そこには症状緩和という要素がなかなか作りにくいんです。患者さんにも医療者にも、治療終了イコール緩和みたい概念があることを感じています。
後閑:がんみたいに「一緒に」がないってことですか?
大森:もちろん、言葉では「心不全の治療と、症状緩和の治療は並行して行うものなんですよ」とは言うんですが、実際にはそういう相談はあまりないです。
宮崎:それは実現できるものなのですか? がんのように。
大森:緩和ケアの要素は、呼吸困難にモルヒネを使うということだけです。意思決定支援として専門家が入るとか、本人の価値観が尊重されたプロセスを踏むとか、社会資源の適正利用とかいうところも緩和ケアだと思えば、一緒にやれるはずなんですけれどね。
宮崎:外来のときから関わるとか。
大森:それは一つありますね。あと、難しいと思うのは、疾患治療も症状緩和になるんですよ。ただ、やりすぎると、たとえば点滴に繋がれた人生になってしまったり、酸素マスクをつけることにより本人が「こんな姿を他人に見せたくない」といって引きこもってしまったり精神的社会的苦痛につながったり……そういったところを見逃しがちになってしまいます。そこで医師も「でも仕方がないよね、治療が必要なんだから」といって、患者の意思を抑え込んでしまう。循環器領域では、治療するか、しないかの選択が中心ですが、そこに「全人的苦痛の緩和につながるか」「本人・家族の意思やQOL(生活の質)はどうか」といった視点も加わるといいですね。
後閑:症状緩和やQOLの視点、大事ですよね。話は少し戻りますが、患者さんが亡くなって「やっとラクになったね」とホッとするご家族の気持ちは決して悪いことではないということは伝えておきたいです。
以前、ご家族が「主人が死んだのに、なんだかホッとしている自分もいるんです。ようやくこの人も私も解放されたって……。私はひどい人間でしょうか?」と言われたことがあります。心不全に限らず亡くなった後、ご家族の緊張がとけ、今まで張り詰めていた空気がゆるむことがあります。本人もご家族も「頑張って大きなひと仕事を終えた」と思えたから、ホッとするんだと思うんです。だとしたら、ホッとするのはよく頑張ったことを証明する気持ちです。「もっと頑張りたかった」「もっと頑張ってほしかった」と思っていたら、ホッとなんてできないとは思います。
途中経過にはいろんな葛藤もあったでしょうが、そのときはそのときで精一杯対応したのだと思うので、もしホッとしたのなら、最後はむしろ、本人もご家族も「よく頑張った」と自分たちを褒めてあげてもいいくらいです。だから、「やっとラクになったね」とホッとするご家族の気持ちは決して悪いことではないと思っています。医療者もですが。
・最後の1日だって家に帰れるから、自分で自分のことを「知りたいか・知りたくないか」も含め、家族・医療者に自分の価値観を伝えること。
・がんも心不全も、治す治療を始めると同時に、早期から「苦しさ」を緩和や予防するかかわりが必要。
・患者の身体的苦痛だけでなく、精神的・社会的・スピリチュアルな苦痛も対処していく必要があるとともに、家族・医療者の苦痛も放置しないこと。