どんなに「否定」されても、
買っていただくしか「道」はない

 だけど、現実は甘くありませんでした。

 保険営業は、親類や知人にアプローチすることから始めるのが通例で、僕もそこからスタートしたのですが、テレビ局時代に親しくしてくれていた知人に「保険の話を聞いてほしい」と電話をしても、あれこれ理由をつけて応じてくれません。しかも、彼らにもう一回電話をすると「着信拒否」をされていて、電話にも出てくれない。

 特に、退職時に「僕が最初に保険に入るよ」と言ってくれた人に、転職後真っ先に意気揚々と電話をしたら、まったくつながらず、そのまま音信不通になってしまったときには愕然としました。要するに、TBSを辞めた僕には「付き合う価値がない」ということ。人間として「否定」されたような気がしました。

 初対面の人からは、もっと露骨な対応をされました。

 プルデンシャル生命保険の名刺を差し出した途端に、「なんだ、プルか……」と言われたこともありますし、数人の食事会に参加したあとに、そのメンバーでフェイスブックのグループを作るというので参加申請したけれど、「“保険屋”はいらない」という理由で無視されたこともあります。

 知り合いに紹介されて会いに行った年下のサラリーマンが、あからさまに面倒臭そうな態度で脚を組み、タバコをくわえながら「話ってなんすか? 保険なら入る気ありませんから」と吐き捨てたときには、正直腹が立ちました。

 こんなエピソードなら山ほどあります。

 毎日毎日、プライドはズタズタ。その苦痛は、完全に想像を超えていました。そして、僕のなかには「怒り」が渦巻いていました。大阪出身の僕は、心のなかで、こんなふうに関西弁で毒づいていたのです。

「なんで俺がこんな目に合わなあかんねん? 何か悪いことでもしたんか?」
「着信拒否って……。話くらい聞いてくれてもええやん。みんな心が狭いで」
「営業マンというだけで否定するようなヤツは最低やろ……」

 今となれば恥ずかしい限りですが、こんな調子で、僕を否定した(と僕が思った)人々のことを心の中で責め続けていたのです。

 そして、正直に白状すると、TBSを辞めたことを後悔しかけていました。「会社の光に照らされるのではなく、小さくても自分で光を発することができる人間になろう」などと粋がらなければよかった、と。

 だけど、今さら遅い。

 もうTBSには戻れませんし、プルデンシャル生命保険を辞めるわけにもいきません。結婚して、幼い子どももいる。家のローンもまだたくさん残っている。しかも、プルデンシャル生命保険はフルコミッションですから、結果が出なければ報酬はゼロ。“保険屋”と否定されようが、お客様に買っていただくしか「道」はないんです。

他人の評価に左右される「プライド」は、
「プライド」と呼ぶに値しない

 逃げ道はない――。

 そう気づいた僕は、自分と向き合うほかありませんでした。
「俺はなんで、こんなに怒ってるんやろ?」と自分に問いかけました。

 そして、ものすごく大事なことに気づきました。

 テレビ局の社員であろうが、生命保険の営業マンであろうが、僕という人間には変わりはない。にもかかわらず、“保険屋”と否定されて、プライドを傷つけられるのには耐えられない。そんなふうに「僕という人間」を見る人たちのことが許せない。僕は、そう思っていたわけです。

 だけど、「それってめっちゃカッコ悪いことちゃうか?」と気づいたのです。

 なぜなら、僕が傷つけられたと感じている「プライド」が、実のところ、他人の「評価」に左右されるものに過ぎなかったからです。

「他人が認めてくれなければ、すぐに傷ついてしまうようなプライドなんて、ほんまにプライドと呼ぶに値するんか? そんなもんにこだわってる俺って、めっちゃカッコ悪いんちゃうか?」

 そう考えが及んだときに、僕は、京都大学のアメリカンフットボール部で一緒に汗を流した同級生のことを思い出しました。