東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。
化学は人類を大きく動かしている――著者より
「火」というきわめて身近な化学的現象がある。世界史(人類史)上、最初に人類が知った化学的現象は、おそらくは「火」であった。火は、「燃焼」という化学反応にともなう激しい現象である。原始の人類は、自然の野火、山火事などに、他の動物と同様に「おそれ」を抱いて近づくことはなかったのだろう。
しかし、私たちの祖先は「おそれ」を乗り越えた─。彼らは火に近づき、火遊びをし、さらには火を利用するようになった。それは、私たち人類が持つ「好奇心」の表れでもあり、おそらく、彼らは火への接近・接触をくり返すなかで、火を利用することの「有用性」を学んでいったのであろう。
いまからおよそ七百万年前、立って歩き始めた猿人がいた。初期猿人である。初期猿人は、直立二足歩行をすることによって、頭を下から支えることができるようになり、前あしは自由になり、手になった。人類の器用な前あし─手は、石や骨、木で道具をつくるようになり、脳を大きくさせた。より複雑な道具がつくれるようになると、発火技術を獲得し、さらには炉をつくって、火をいつでも使える技術も獲得した。
火は、暖房、照明、狩猟、焼き畑のような直接的利用はもちろん、土器やレンガを焼いたり、調理、鉱石から金属を得る精錬、金属加工にも利用された。しかし、「火の技術」は、人々の生活を豊かに便利にしてきたが、森林破壊を起こすことで自然環境、景観を大きく変えてきた負の面もある。
約5000年前あたりからいわゆる「四大文明」が生まれる。インダス川沿いに生まれたインダス文明では、都市は同一規格の焼成レンガでつくられた整然とした舗装道路、下水設備、大沐浴場、城塞、穀物倉庫群を備えていた。しかし、都市が必要とする大量の焼成レンガをつくるために流域の樹木を乱伐したことから森林が破壊され、その後の土壌は風雨の侵食を受け、地力が低下し、紀元前一八〇〇年あたりから衰退していった。収穫が減って軍隊を養えなくなったところへ、外部からの攻撃を受けたことが原因だと考えられている。
やがて人類は、金属の鉱石から金属を得る「製錬」という化学技術を手にした。とくに鉄は、現在でも鉄器文明の延長線上にあるという最重要の物質・材料である。鉄鉱石から鉄を得るのには銅鉱石から銅を得るよりも高い温度が必要であり、さらには得た鉄を加工するにも高い技術が必要だった。
チタンなどの新しい金属の登場により金属材料の世界は多種多様なものとなったが、やはり主役は鉄鋼(鉄を主成分とする金属材料の総称)だ。鉄鋼は、豊富な資源と強靱な性質から、古来より武器や、工具(のみ、小刀、のこぎりなど)、農具(すき、くわなど)に使われて歴史を動かしてきた。鉄づくりの技術を先に得た国家や民族が、それを持たない人々を屈服させていった例は、世界史の中に数多い。
さて、「化学とは何か」を簡単に述べてみたい。私たちの世界は物質からできている。身のまわりには、水、空気、土、石、木、金属、紙、ガラス、薬品、プラスチック、ゴム、繊維など、実にさまざまな物質がある。私たちは、多種多様な物質を生活に利用している。
私たちの生活を便利にしているさまざまな物質は、物質の「構造」(物質をつくる原子・分子・イオンがどんな結びつきをしているかなど)や「性質」、「化学反応」(新しい物質ができる変化。化学変化)を研究する化学が発展してきた成果である。
考古学において、文字が使用される以前の時代を、おもに利用された物質・材料によって「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」と三つに区分する考え方がある。材料としての石や金属の利用は、世界史に大きな影響を与えてきたからである。
人類、とくに約二十万年前にアフリカで生まれたホモ・サピエンスは、時間の経過とともに、道具、火(エネルギー)、衣類、住居、建物、道路、橋、鉄道、船、自動車、農業、工業などをつくり出し、それらの助けを借りて、全世界にはびこっている。人類の文明の土台には、「化学」という学問の進歩と、化学の成果がもたらした物質・材料がある。私たちは、天然には存在しない物質をも、化学の知識と技術でつくり出してきたのだ。
本書では、第1章~第3章では、古代ギリシアで芸術・思想・学問が見事な花を咲かせた時代に、自然科学や化学は、どのようにして生まれたのかを紹介しながら、化学の基本的な考え方や原子論、元素、周期表などがどのように生み出されてきたのかを、さまざまな天才化学者たちが織りなすエピソードとともに描いた。
また、第4章以降は、火、食物、アルコール、セラミックス、ガラス、金属、金・銀、染料、創薬、麻薬、爆薬、化学兵器、核兵器にいたるまで、化学の成果がどのように私たちの歴史に影響を与えてきたのか、その光と闇をふくめて紹介していく。
■新刊書籍のご案内

左巻健男 著
本体1700円+税
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)推薦
「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」
人類は化学とともに発展してきた。始まりは、人類史上最大の発明とも呼ばれる「火」(燃焼という化学反応)の利用である。人類は火を利用することで、土器やガラスを作り、鉱石から金属を取り出すようになり、生のままでは食べるのが困難だった動物や植物も捕食の対象に加えて、生存範囲を飛躍的に広げていった。
現代では、金属やセラミックス、ナイロンのような合成繊維から、ポリエチレンのようなプラスチック類、高性能な電池、創薬などの新しい物質や製品を生み出しているが、いずれも化学の成果に下支えされている。
つまり、化学は、火、金属、アルコール、染料、薬、麻薬、石油、そして核物質と、ありとあらゆるものを私たちに与えた学問と言える。
本書は、化学が人類の歴史にどのように影響を与えてきたかを紹介する。化学という学問の知的探求の営みを伝えると同時に、人間の夢や欲望を形にしてきた「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける白熱のサイエンスエンターテイント!
本書では、「化学」という学問の進歩と、化学の成果がどのように私たちの歴史に影響を与えてきたのか、その光と闇をふくめて紹介してきた。一部、生物学的、物理学的な箇所もあろう。それも化学が生物学にも物理学にも重なっていることととらえていただければと思う。本書を読まれたあなたに、「世界史と化学がこんなに密接に関係していたのか」と思っていただけたのならば、また、化学という学問の魅力に関心を持っていただけたのならば、私としては嬉しい限りである。(本書の「おわりに」より)