「社会を変えるのは、いつだってひとりの行動から――」
3月23日放送の「セブンルール」(カンテレ・フジテレビ系 全国ネット)に登場した、認定NPO法人Homedoor(ホームドア)理事長の川口加奈さん。14歳でホームレス問題に取り組みはじめ、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」も獲得した川口さんですが、彼女のいったい何がそこまで人を惹きつけるのでしょうか? それは、支援にビジネスの仕組みがうまく組み合わせられているから、にほかなりません。彼女が立ち上げた事業のひとつ、路上生活者の就労支援を兼ねたシェアサイクルサービス「HUBchari(ハブチャリ)」は、コロナ禍で通勤の足として注目され、利用者が前年比で2倍となるなど事業としても伸びています。番組MCの長濱ねるさんが「絶対に見てください」と予告で語るほどの衝撃を与えた川口さんですが、彼女を突き動かす原点はどこにあるのでしょうか? 著書『14歳で“おっちゃん”と出会ってから、15年考えつづけてやっと見つけた「働く意味」』から、彼女が高校生の時に抱えたある「後悔」と、その悔しさから描いた「夢」に迫ります。
「わしにもできる仕事ないかな」――心に引っかかったままのおっちゃんの言葉
1991年、大阪府生まれ。14歳でホームレス問題に出合い、ホームレス襲撃事件の解決を目指し、炊き出しやワークショップなどの活動を開始。17歳で米国ボランティア親善大使に選ばれ、ワシントンD.C.での国際会議に参加する。高校卒業後は、ホームレス問題の研究が進む大阪市立大学経済学部に進学。19歳のとき、路上から脱出したいと思ったら誰もが脱出できる「選択肢」がある社会を目指してHomedoor(ホームドア)を設立し、ホームレスの人の7割が得意とする自転車修理技術を活かしたシェアサイクルHUBchari(ハブチャリ)事業を開始。また2018年からは18部屋の個室型宿泊施設「アンドセンター」の運営を開始する。これまでに生活困窮者ら計2000名以上に就労支援や生活支援を提供している。世界経済フォーラム(通称・ダボス会議)のGlobal Shapersや日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019」、フォーブス誌による日本を変える30歳未満の30人「30 UNDER 30 JAPAN」、青年版国民栄誉賞とされる日本青年会議所主催の「第31回 人間力大賞グランプリ・内閣総理大臣奨励賞」など、受賞多数。【写真:三宅愛子(kiwi)】
私には、活動するなかでずっと心に引っかかったままの出来事がある。
それは、夜回り活動のとき、あるおっちゃんから言われた「わしにもできる仕事ないかな」というひと言だ。
そのおっちゃんとは、夜回りで毎月必ず会っていた。センターと呼ばれる釜ヶ崎の象徴的な建物の軒下で、他のおっちゃんたちと並んで寝ていた。最初は、「こんばんは〜」と少し言葉を交わす程度だったが、高校生で夜回りに毎月来ていたのが珍しかったようで、「何年生や?」「夜回りなんて来んと、勉強がんばりや〜」「風邪ひいたらあかんで〜」といつも温かい声をかけてくれた。あるとき、「わしにもあんたくらいの娘がおってなぁ。懐かしいわ」と言うので、生年月日を聞いて計算したら娘さんは40歳近かった。そんな関係性ができたからか、なぜホームレスになったのか、身の上話をしてくれた。
そのおっちゃんは、もともと自分で会社を経営していたそうだが、親会社の倒産にともない自分の会社も倒産。多額の借金を背負い、迷惑はかけられないと家族とも離別し、借金の取り立てから身を隠すように、日雇い労働を求めて釜ヶ崎にやってきたそうだ。しかし、おっちゃんはもともと心臓が弱く、過酷な日雇い労働では働けず、またたく間にホームレスになってしまった。
世間からしたら、「自己責任だから仕方ないんじゃない?」とか、「もっとできることあったんじゃない?」とか、「その人に能力があれば会社も倒産せずに済んだんじゃない?」と思われるかもしれない。
でも少なくとも、おっちゃん自身が一番後悔していた。
「あのときああしてたら、家族とも別れずに済んだんじゃないかな。こうしてたら会社もうまくいったんじゃないかな」と。
私はそんなおっちゃんのことを「自己責任だから、ずっとホームレスでも仕方ない」で済ませたくなかった。
それに、もし私がそのおっちゃんの人生を歩んでいたら、親会社の倒産というせっぱ詰まった状況ならおっちゃんと同じ判断をしていたかもしれない。しかも、おっちゃんはおっちゃんなりに、そのときそのときで、精一杯できることをしていたんじゃないかと思えた。
おっちゃんの身の上話を聞いて、私はより一層、何かできることないかなと思い、尋ねるとこう返ってきた。
「せやな……とりあえず、もう一度ちゃんとした仕事で働きたい。わしにもできる仕事ないかな」
おっちゃんの口からこぼれた「働きたい」という言葉。やり直したい。もう一度働いてがんばりたい。それを応援せずにはいられないと私は奮起した。
その日から私は、おっちゃんに内緒で、63歳の男性が働ける仕事はないだろうかと探しはじめた。求人情報誌に掲載されている会社に片っ端から電話していった。しかしいざ、具体的に仕事を探そうとすると、ホームレス状態から働く状態に至るには、さまざまなハードルがあることに気づいた。
まず連絡手段について。今は私の携帯電話から電話しているけど、もしおっちゃんが面接に行くとなったら、面接の合否の連絡はどの電話にしてもらったらいいんだろうか? 働くとなったら、やっぱり携帯電話はマストアイテムだけど、おっちゃん、携帯電話代払えないし、そもそも、ホームレスの人でも、携帯電話って契約できるんだろうか?
ほとんどの求人票には給料翌月払いと書かれているけど、これって働いてもすぐにはお金がもらえないってこと? そしたら給料がもらえるまでの生活費、どうしたらいいんだろう? 今は昼間に炊き出しに並んでご飯を食べているけど、日中に働くようになったら炊き出しには並べなくなる。そもそも、交通費もないのにどうしたらいいんだろう? 働くんだったら、身なりもちゃんとしないといけないし、そのお金はどうしたらいいんだろう?
仕事を探せば探すほど、ホームレスの人が働くには大きな壁があると感じた。
結局、大した仕事も見つけられず、翌月の夜回りの日がやってきた。おっちゃんにどう話そうと考えあぐねながらおっちゃんを探すも、そんなときに限っておっちゃんがいない。いつものコースを一周しても、結局会えなかった。終わり際、私は、いつもおっちゃんが寝ていた場所の近くにいる別のおっちゃんに聞いた。
「あそこで寝てたおっちゃん、どこ行ったか知ってます?」
「ああ、あの人。こないだ亡くなったで」
頭を殴られたような衝撃だった。結局、その方は身分を証明するものを持っておらず、無縁仏になったという話もあとから聞いた。もう一度やり直したい、そんな思いが叶わず、路上で名前も知られず亡くなってしまう。そんな社会、もう嫌だと思った。
だから、私は夢を描いた
結局、私の活動(編集部注:高校生の頃、川口さんは啓発活動に勤しんでいた)はホームレス問題の根本原因にアプローチできていない。ホームレス問題への偏見をなくして、ホームレス状態をちょっとだけよくしたという対症療法的な活動にとどまっていたんじゃないだろうか。そうじゃなくて、本当に必要なのは根本的に問題を解決すること。ホームレス状態から脱出したいと思ったら誰でも脱出できるし、そもそも、ホームレス状態になりたくないって思ったらそうならずに済む。そんな社会にする必要があるんじゃないか。
そんな思いから、私は1枚の絵を描いた。
とりあえず、ここに駆け込んだらなんとかなる。そんな施設の間取り図を描いたのだ。
――その日暮らしになっている路上での生活では、今後のことなんて考えられないんだよなぁ。安心して、自分のペースでゆっくり過ごしてもらいながら、これからのことを考えてもらう。そんな時間が必要なんじゃないかな。よし。とりあえず、ここに来てもらったらその日からゆっくり休んでもらえる個室を用意しよう。
――3時間も寒いなか並んでおにぎりをもらうんじゃなくて、いつ来ても温かいご飯が食べられる。そんな場所があったらなぁ。やっぱり、おなかがいっぱいにならないとがんばろうっていう気力も湧かないんじゃないかな。日本では廃棄食品も多いっていうし、その食品を集めて、カフェもできるんじゃないかな。よし。栄養の取れる食事ができるカフェもつくろう。さらにそのカフェでは、おっちゃんたちに就労支援として働いてもらおう。それ以外にも、どんな人でもその日から働ける仕事をたくさんつくろう。職業訓練が受けられるように、教室もつくろう。
――ホームレスの人の中には児童養護施設出身の人も多いなぁ。児童養護施設は18歳(現在は20歳)を過ぎると退所しなければならなくて、急に頼れるところがなくなってしまうのがよくないんじゃないかなぁ。それなら、成人向けのこの施設に併設したら、大人になっても帰ってこられる場所がある状態をつくれるんじゃないかな。おっちゃんたちの中には子ども好きの人も多いし。よし、施設の真ん中には公園をつくろう。
――ホームレスの人たちにも優しい、安心して医療を受けられる病院も描こう。路上から搬送された場合に備えて、救急車が直接、施設に入れるようにしよう。
――悩みを抱えた人も多いから、カウンセリングルームもつくろう。
――音楽は人を癒やすっていうし、私の好きなオーケストラの楽団もつくろう。
自分の趣味も織り交ぜつつ、1枚の絵を描き上げた。