二極化しても
チャンスのある社会
――人間拡張によって、社会の断絶や格差はなくなりますか、それとも広がりますか。
1999年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。東京大学リサーチアソシエイト、同大学助手、JSTさきがけ研究者、電気通信大学知能機械工学科講師、同大学助教授、同大学教授、マサチューセッツ工科大学コンピュータ科学・人工知能研究所客員科学者、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授等を経て、2016年、東京大学先端科学技術研究センター教授。2017年、ERATO稲見自在化身体プロジェクト研究総括。2018年、東京大学バーチャルリアリティ教育研究センター応用展開部門長。光学迷彩、触覚拡張装置、動体視力増強装置など、人間拡張技術を各種開発。米TIME誌Coolest Invention of the Year、文部科学大臣表彰若手科学者賞などを受賞。超人スポーツ協会発起人・共同代表。著書に『スーパーヒューマン誕生! ―人間はSFを超える』(NHK出版)がある。
情報技術が普及すると、富がより集中して、社会の二極化がさらに進む可能性が高いでしょう。すでに、動画投稿サイトやSNSを使いこなし、本業とは別に莫大な収入を得ている人がいるのはご存じの通りです。そして、人間拡張によって格差を生むのは資本財としての自分の分身の数かもしれません。その頃には、新しい資本となる分身の価値を認知させ、どれだけ数を増やして稼がせるかが勝敗の分かれ目になります。いわば、分身AI資本主義社会です。
ただ、AI資本主義で生まれる格差は、さほど固定的ではありません。人間が社会的動物である限り、格差のある集団ができてしまうのは避けられませんが、AI資本主義社会では、新たな価値をつくるチャンスは基本的に平等です。新たな意味を生み出し、価値を与え、それを分身AIで増幅する仕組みをつくることができれば、いくらでも価値の山をつくることができます。
――格差を逆転しやすい社会になるということですね。そうした社会で、弱者となるのはどんな人でしょうか。
格差の意味が変化すると考えます。農業革命では身体能力で格差が生まれました。産業革命では、身体能力の優位性が薄れ、機械を扱える学習能力やメンタルが要求されるようになりました。それ以降、今日まで、知識的価値をいかに自分の頭にコピーするかが重視されてきました。
しかし、現在進行している情報革命では、知識のコピーはAIが担うため、すでにある知識を覚える力ではなく、新しいものをつくり出して広める能力が勝負を決することになるでしょう。つまり、求められるのはオリジナリティです。ただし、とっぴなものを生み出す独自性というより、既存のものと差異をつけて拡散していく「源流性」が重要です。だれも登らないような孤立した山をつくっても意味がありません。独創性があっても、拡散できなければ、異端で終わります。かといって、差異を生み出せなければ、マジョリティではあるものの、弱者となってしまいます。
人とまったく同じではいけない。でも、まったく違っていてもいけない。マイノリティでありながら、異なる分野のマイノリティをつなげ、拡散できるような差異をどう生み出せるかでしょう。拡散という面で、SNSなどでだれとつながっているかも、より大切になってくるでしょう。
――一方で、人間拡張技術の進展により他者を知りすぎることで、個性が均質化していく可能性はありませんか。
海外を訪ねると、日本の長所や欠点がはっきり感じられます。考え方の違いや背景もより理解できます。そう考えると、他者を知ることが均一化に結びつくとは思いません。むしろ自らの特徴に気づかないまま自己規定してしまい、考えやシステムが凝り固まってしまうほうが心配です。それは情報的な死を意味します。それを防ぐ教育や教養が必要です。
――どのような教育が必要でしょうか。
これまで教育や教養は学問としての追究や、偏差値の高い大学やいい会社に入るための手段でもありました。しかし、今後の役割は閉鎖的なネット空間に同意見の人が集まることで思想が凝り固まることを防ぐ、異なることや現在興味のないことに魅力を感じる、つまり人とは異なる好奇心、現代の「数奇」を育む方向によりシフトしていくかもしれません。
もちろん従来と同様に語学や数学、物理など、文化を越えてコミュニケーションできる学問が重要視されます。そして、学び方を学ぶ「メタ学習」の重要性は不変です。技術の進化のスピードが速い時代においては、なおさら学び続ける能力は不可欠です。
――日本社会ならではの人間拡張技術との付き合い方や、発展の可能性はありますか。
特に欧州では、テクノロジーによる支援や失った能力の補填は許容されますが、人間の能力のエンハンスメント(強化)に対しては抵抗感が強いようです。人間の能力は神が与えた個性という思いが根底にあるのかもしれません。一方、日本では、そういう感覚を持つ人はあまりいません。ヒューマニティに関する議論が前提条件としては起きず、よくも悪くも能天気に「まずはやってみよう」となります。テクノロジーの進化という面では、大きなメリットです。諸外国と同じ価値観、グローバルアジェンダで進める必要はないと思います。
もちろん、最終的にグローバル展開する際には、そうした視点も必要になりますが、和食のように、日本ならではの個性がなければ、海外から価値を認めてもらえません。場合によっては、物理的開国を維持しつつ、情報的鎖国が部分的に必要かもしれません。一方で、世界に完全に開かれた状態で、各国のいろいろなものを真似しようとして自然と生まれる差こそが、日本としての個性になるとも信じています。