「応仁の乱で幕府が弱体化」は誤り

 約11年にわたって続いた応仁の乱が終結した後、再び室町幕府は統一された。新将軍の義尚は、若いながら政治に強い意欲を示したが、引退したくせに父親の義政がなかなか権限を義尚に譲渡しようとせず、親子間で確執をくり返していた。とはいえ、室町幕府が再びしっかり機能しはじめたのは確かである。

 つまり、応仁の乱後に幕府が完全に力を失い、全国が下剋上の世になって戦国大名たちが分国を拡大するために相争うようになったという解釈は正しくない。

 乱の終結から10年後の長享元年(1487)、将軍義尚は将軍の権威を高めるため、2万の大軍を引き連れ、反抗的な六角高頼を討伐する目的で近江国へ出陣した。この頃、ようやく義政が本格的に権力を手放し始めたと考えられている。

 ところが、義尚が25歳の若さで病没してしまったのである。酒の飲み過ぎで体を壊したというが、はっきりした死因はわからない。義尚が亡くなると、義政の正妻・日野富子は義視の子・義材を将軍にしたいと考えたが、なんと、父親の義政が将軍の座に返り咲いたのである。けれど翌年、その義政も中風によって55歳で没してしまった。そこで富子は、再び義材を将軍にすえようと動きはじめた。

 一方、細川勝元の子で幕府の実力者である政元は、清晃を将軍にしたいと考えていた。清晃は、義政の異母兄で堀越公方となった足利政知の子である。ただ、将軍家における富子の権限は強く、結局、新将軍には義視の子・義材(後の義稙)が25歳で就任した。

クーデターを決意させた女性

 しばらくすると、美濃国から義材と一緒に上洛した義視(義材の父)が将軍の後見人として政治を動かすようになり、さらには富子と対立するようになったが、そんな義視も延徳3年(1491)正月に死没してしまう。

 これにより、将軍義材の力は弱まるかに思えた。しかし、義材は同年8月、威勢を回復していた六角高頼を攻めるべく近江へ出陣したのである。六角氏を倒して己の権威や武威を上げて求心力を高め、さらには、直属の武士である奉公衆たちに六角氏から没収した土地を与えて結束を固くしようとしたようだ。