アパルトヘイトが放置された理由

 冷戦時代は、東西間交流が非常に困難でした。そのため、西側諸国はレアメタルの輸入を南アフリカ共和国に依存していました。

 南アフリカ共和国はレアメタルの供給地として、国際的地位を高くしていったのです。だからこそ、西側諸国は南アフリカ共和国のアパルトヘイトを強く非難することができませんでした。

 アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国で行われていた合法的に黒人を差別できる政策です。1911年に制定された「鉱山労働法」がアパルトヘイトの最初の人種差別法です。金やダイヤモンドの鉱山で働く白人と黒人の職種区分と人数比を統一する法律で、圧倒的に黒人のほうが多いのに、その人数比の統一が行われたことで、黒人の就業機会は極めて少なくなりました。

 公共施設は白人用と白人以外用に区別され、黒人が白人専用の場所に立ち入った場合は逮捕されることもありました。異人種間の結婚はおろか、恋愛も認められていませんでした。西側諸国が強く非難できないことをいいことに、アパルトヘイト政策はどんどんエスカレートしていきました。

 これに対する反対運動が起こり、後に大統領となるネルソン・マンデラもその運動に参加していました。1980年代に入ると、ようやく国際社会から経済制裁が発動されるようになりました。

冷戦終結によってもたらされたもの

 1989年のマルタ会談によって、冷戦構造は終わりを告げました。これによって東西間交流が進み、西側諸国はロシアなどからのレアメタル輸入が可能となりました。南アフリカ共和国からレアメタルを輸入する必要がなくなったのです。

 ここからさらにアパルトヘイトに対する経済制裁は強まります。これを受けて、ついに1991年、南アフリカ共和国はアパルトヘイト政策の撤廃を宣言しました。1994年には全人種が参加した初めての総選挙が実施されます。ここで勝利したのが、アフリカ民族会議という黒人政党でした。そしてネルソン・マンデラが大統領になるのです。

 門戸が閉ざされていたスポーツの国際大会への参加も認められるようになり、1998年FIFAワールドカップフランス大会に初出場、2010年には開催国となりました。

 資源を持つ国は声が大きい。資源を外交カードとして利用できるからです。南アフリカ共和国は冷戦時代、レアメタルを利用し、アパルトヘイト政策を強硬に推進し続けました。

 しかし、そういった歴史を乗り越え、南アフリカ共和国は新しい国へと生まれ変わり、1994年4月27日、新しい国旗が制定されました。赤はアパルトヘイト時代に流れた血、青は空と海、緑は自然と農場、黄は天然資源、黒は黒人、白は白人をそれぞれ表しているといわれています。7色ではありませんが、この国旗はレインボーフラッグと呼ばれています。

 政情が安定すればこそ、経済成長を望むことができます。大なり小なり、国内に人種問題は存在するかもしれませんが、南アフリカ共和国は工業発展の一歩を踏み出し、今日に至るのです。
(本原稿は、宮路秀作著『経済は地理から学べ!』を抜粋、再構成したものです)