習氏は演説で「強国」というキーワードを多用、西側諸国の圧力には屈しないという姿勢を示し、式典の参加者たちは習氏の一言一句に、指示通りのタイミングで歓声を上げた。式典には同じ服装で統一された学生も集まり、事前に練習したとおりに一糸乱れず歌や踊りを披露した。49の高校や大学から選ばれた3000人の合唱団が歌い、それに7万人の参列者が唱和した。このような「全体的に整った行動」は、あたかも「全体主義国家のマスゲーム」をほうふつとさせるものだった。

 この式典を見て、ナチズムやファシズム、スターリニズム、あるいは北朝鮮の現体制を想起する日本人も少なくなかった。だが、中国の「集会」はそれらとは性格が異なるところがある。前出の加々美氏は「実は、過去に天安門広場で行われた集会は、このように整然として画一的なものではなく、もっと混沌としたものだった」と語る。

100万人集会で圧死寸前、それでも興奮していた過去

 上海在住の梁勤さん(仮名・69歳)は元紅衛兵で、天安門広場で赤い毛沢東語録を高く掲げた一人だ。1966年の夏に行われた「100万人の紅衛兵大会」に参加したことのある当時の様子を、言葉を選びながら、こう振り返っている。

 「紅衛兵だった私は、上海から北京まで何日もかけて列車で移動しました。北京の駅に着いてから天安門までの移動も一苦労でした。天安門では大勢の人がごちゃごちゃに入り乱れ、そこで転倒した私は圧死寸前という恐怖を体験しました。幸い命拾いしましたが、それでも当時は毛沢東に接見できるという興奮の方が強かったのを覚えています」

 他方、加々美氏は1989年の天安門事件直前に訪れた北京をこう回顧している。

 「私は1989年4月末から北京入りし、当時民主化を求める群衆による『50万人のデモ』に出たことがあります。1日何時間、あるいは何日間にも及んだ集会でしたが、集会そのものが、誰かによってコントロールされている状態ではありませんでした。無秩序な状況ではあったけれども破壊的な行為に向かうわけでもない、そんな中でも人々は嬉々として集会に参加していたわけです」

 熱さ、渇き、体臭……。群衆が集まる天安門広場はまさにカオスだったという。

 「画一的な統制のとれた空間どころか、トイレのない天安門広場では排泄物の処理すらできず、溝があればそこで済ますなど、まさしく混沌としていた」(加々美氏)

 しかし、今回の“集会”に目を転じると、そこには「右向け右、左向け左の整然としたデモンストレーション」があった。「統一された服装」、「統一された歌や演技」、そして「統一された表情」が印象的だが、加々美氏は「こうした全体主義的な演出は、他国の独裁の典型を模したもの」であると話す。毛沢東時代の独裁の特徴については「指導者の演説に対して人々が示す呼応のタイミングもバラバラで、統一されたものではなく、むしろ個々のエネルギーを解き放つものだった」と述べている。