理化学研究所所長 大河内正敏
 前回に続き、理化学研究所(理研)の第3代所長、大河内正敏(1878年12月6日~1952年8月29日)のインタビューである。「ダイヤモンド」1935年9月21日号に掲載された「理化学研究所長、大河内博士に物を聞く会」と題されたロングインタビューを全3回に分けた2回目だ。

 研究所内で自由闊達に行われている研究分野を有機的につなげ、事業化していく「芋づる式経営」によって、今で言う“研究開発ベンチャー”を次々に送り出し、戦前の15財閥の一つに数えられた「理研コンツェルン」を形成した大河内。ここでは、前回に続いて発明をいかに事業化するかについて、理研酒やピストンリングを例に挙げて持論を展開した後、今後の可能性のある分野として自動車とマグネシウムについて詳しく語っている。

 特に大河内が自らの研究室で取り組んだ金属マグネシウムは、製塩事業で廃棄される苦汁(にがり:塩化マグネシウム溶液)を用いる製造法を開発した自慢の領域。理研での基礎研究を終えると28年に理化学興業に移管され、新潟県柏崎で工業試験を開始し、32年に理研マグネシウムを設立している。さらに、将来の需要増を見込んで、南満州鉄道と提携して中国・満州や朝鮮に埋蔵されるマグネサイトを確保し、それと瀬戸内海の塩田から発生する苦汁を組み合わせ、日満マグネシウムを山口県宇部市に設立。増産に乗り出した。インタビューはちょうど宇部工場が稼働し始めた頃だが、このあと日中戦争の勃発で軍用飛行機向けの金属マグネシウムの需要が高まっていく。

 軍需市場がなくなった戦後は、国内の金属マグネシム工業は下火となり、さらに49年の財閥解体に伴って日満マグネシウムは宇部化学工業と姿を変え、その流れは現在、宇部興産の完全子会社である宇部マテリアルズへとつながっている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

発明を事業化するときに
発明者が関係してはならない

――民間の人がやってうまくいかんのは、どこに欠点があるのでしょう。

1935年9月21日号1935年9月21日号より

 それは、第一に、私の言う芋づる式の経営ができない。一方から出た廃物を他の一方に使うというようなことは、素人には分からぬものです。だから、理研でやるより生産費が高くなる。

――理研酒(原料に米を使わない合成酒。1918年の米騒動を機に理研が開発した)の例で言えばどういうことになりましょう。

 理研酒の例で言うならばまず醸造地の選択から間違っています。藤沢などで、理研酒を造って、安くできるはずがない。位置の選定を誤っている。石炭が高く、電力が高く、原料が高い。今日、理研酒の原料になるものは、南洋から持ってくる糖蜜です。糖蜜を横浜で揚げて、藤沢まで、トラックで運ばなければならぬ。

 けれども、理研の方は、安い電気と、安い石炭が買えるのみならず、他で使っている蒸気の一部分を酒の醸造にも使える。それで生産費が安くなるのです。ボイラーの釜焚きを雇うにしても、他の仕事があって、その一部分を酒に使うのだから、その割合はごくわずかです。

――それで分かりましたが、なお他の例をお話し願いたい。