「いじめっ子に罰を与えるのもどうかと思うよ」
日本社会は加害者をやたらかばう

 しかし、日本ではなぜか加害者をやたらかばう。特に異様なのが、「小山田氏を叩いている人は、小山田氏がやったことと同じことをしている」という主張だ。ネットリンチだ、イジメだと大騒ぎするが、小山田氏が叩かれているのはたかだかこの1週間程度の話。もっといえば、あれだけのことをして一部から批判もされてきたのに、なんの説明もなく五輪の仕事を引き受けた結果なのだから、「自業自得」といっていい。

 なんの落ち度もなく、障害を抱えていたというだけの理由で小山田氏にいじめられ、その記憶を40年近くも引きずっている被害者と、どこをどう見たら「同じ」なのかまったく理解に苦しむが、このように考える人が一定数存在する。

 特にワイドショーにはそういう同調圧力が強い。「いじめは絶対に許されないことだというのは大前提として」と予防線を張って、やたらと批判をやめろと呼びかける。

 確かに、小山田氏の息子などにからむなどの行為は許されることではない。しかし、小山田氏のような振る舞いを「悪」だと断罪しなければ、かつての小山田氏のように、いじめを娯楽として楽しんでいるような子どもに、「炎上しても、この人みたいに謝罪すりゃ、どうにかなるのね」と誤った認識を与えてしまう恐れもある。

 そして、 インテリたちがしたり顔で言う「いじめは良くないけど、だからと言って、いじめっ子に罰を与えるのもどうかと思う」という傍観者丸出しのコメントは、現在進行形でいじめを受けている子どもたちに、「結局、いじめる側にまわった方が得じゃん」と感じさせて、生きることに「絶望」をさせている。

 61万2496件という過去最多の「いじめ認知件数」(2019年度)となったのは、日本の大人たちがいつまでも「いじめの傍観者」から抜け出せていないことも大きい。

 今回の小山田氏の炎上騒動は、このような日本の現実を見事に浮かび上がらせた。そのような意味では、筆者は小山田氏が五輪に関わってくれてよかったと思っている。

 五輪の音楽担当者になったからこそ、一部でしか知られていなかった小山田氏の過去が注目をされたのである。逆に言えば、五輪の仕事を引き受けなかったら、今も小山田氏は批判されることもなく、こういう事実があったことさえ一般国民にはわからなかった。

 これこそが今回の五輪の「レガシー」ではないか。

 他にもここまで様々な問題が噴出したが、どれも実は日本社会がかねてから抱えていた問題だ。五輪によってあぶり出されたそのような「醜悪な現実」から目を背けるのではなく、真摯に受け止めて、おかしなことをおかしいと声をあげていく。

「がんばれ、ニッポン!」と叫んで、メダルの数が増えた減ったと大騒ぎをするよりも、こちらの方が、よほど「日本のため」になるだろう。