一方、ある種の行為について、「やっていいこと」と「やってはいけないこと」を決めるのは、社会の成員の民主主義的なプロセスで決めることが可能だろう。例えば「炭素税」のように、ある種の環境破壊行為に対して一定のペナルティを設けることは可能だろう。

 だとすると、社会が「やっていいこと・いけないこと」を決めた上で、資本主義のプロセスで何にいくら投資するかを決めたらよいのではないだろうか。「資本主義を捨てる」というアイデアには無理がある。

 資本主義を捨てる社会について筆者が心配なのは、投資などの資源配分を現実的なスピードで決めようとすると、一部のエリートなり権力者なりによる、権威主義的な意思決定を社会が採らざるを得なくなる可能性が高いことだ。そして、現実に存在する多くの権威主義国家が、当初の希望に満ちた建国の状態から、こうした理由によって現在の何らかの専制状態に移行してきたように思われる。

資本主義につきまとう
「格差問題」にはどう対処する?

 もちろん、資本主義の仕組みを維持した場合、資本家に富が集中して社会のメンバー間の経済力の格差が拡大するという問題を抱えることになる。ただ、この問題に対しては、富めるメンバーから貧しいメンバーに対して、富の再分配を行うことで対処が可能だ。もちろん、資本家は自らの稼ぎに対して大きな課税がなされることを嫌うだろう。とはいえ、例えば稼ぎの9割に課税されたところで、残りの1割での利益を求めるモチベーションがなくなるわけではない。

 現在「資本主義の行き詰まり」に見えているものの解決策は、「資本主義を捨てて、コモンに関して熟議すること」ではなく、「行動ルールを社会で決めながら、資本主義の仕組みを残し、再分配の仕組みを強化すること」の組み合わせではないだろうか。

 もちろん、この組み合わせに近い運営を行っても、政治が資本家に買収されて、資本家にとって都合がいい制度に社会がゆがむ可能性はある(現在の米国がそれに近いイメージかもしれない)。こうした可能性は排除する必要があるが、仕組みとしての資本主義を捨てるのはあまりにもったいないと筆者は思う。

 時に「汚い」し、「横暴」だったり「非効率」だったりする「ポンコツ!」なのかもしれないが、資本主義を手直ししつつ使うことが現実的・相対的に優れているように思う。そして、資本主義はマイナス成長とも共存できるのだ。

 マイナス成長や環境問題くらいで、われわれは、自由と資本主義を手放す必要はない。