国鉄の都心乗り入れとともに
郊外私鉄も発展

 国鉄の都心乗り入れと表裏一体の関係にあるのが郊外私鉄の発展だ。東京では大正中期から山手線を越えて郊外化が始まっていたが、震災後は安全で環境の良い郊外に移住する流れが加速した。この受け皿となったのが山手線に接続する各私鉄であった。

 震災直前の1923年3月に開業した目黒蒲田電鉄(現東急目黒線・東急多摩川線)をはじめとして、1926年に東京横浜電鉄(現在の東急東横線)、1927年に西武鉄道村山線(現在の西武新宿線)、小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)などが次々に開業。これら路線の利用者はターミナルで山手線に乗り換え、都心に通勤した。

 この劇的な変化をひとつの統計から見てみよう。ようやく「郊外」が山手線を越えようかという1919年、東京の交通分担率は市電が78.5%を占め、国鉄は11.8%だった。ところがわずか16年後の1935年には市電は21.6%まで減少したのに対し、国鉄は26.9%となり市電を逆転したのである。

 市電の車体は小さく、道路を人や車と共有するため速度も遅かった。これに対して山手線は1925年の時点で既に5両編成で運転しており、専用の線路を走るため速度も現在と遜色のないほどであった。

 郊外化の進展により都心からの距離が広がるとともに、住宅地は面的にも拡大する。(当時としては)長距離かつ大量輸送に応えられるのは国鉄の電車ネットワークだったのである。

 では追われる立場となった市電はどうだったのか。市電も震災によって壊滅的な打撃を受けている。震災当時、市電は1795両の車両を保有していたが、うち779両が火災によって失われた。軌道や橋梁、架線、車庫、変電所にも大きな被害が発生し、同年9月11日までに全体の3分の1、同年12月1日までに全体の3分の2が復旧。全路線の復旧が完了したのは震災から1年後のことだった。

 電車はレールや送電設備を整備しなければ動くことができないが、自動車は道路さえ開通すれば走ることができる。そのため東京市電気局は市電が完全復旧するまでの応急措置としてアメリカからバス1000台を輸入し、市営バスの運行を開始した。

 渋谷~東京駅、巣鴨~東京駅の2路線から始まった市営バスは好評をもって迎えられ、市電復旧後も運行を継続することになった。復興計画により道路の整備が進んだこともあって利便性、速達性がさらに向上し、路面電車を脅かす存在にまで成長する。先述の交通分担率で見ると、1935年には市電21.6%に対し、バス(民営バスも含む)18.3%と肉薄するほどだった。