関東大震災が変えた
地下鉄の運命

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 市電を脅かしたもう一つの存在が地下鉄だ。日本初の地下鉄、現在の銀座線は1927年12月30日に上野~浅草間で開業し、1934年に浅草~新橋間が全通している。しかし、その構想は震災以前から存在しており、震災によって運命を変えられていたことはあまり知られていない。

 この地下鉄を建設した東京地下鉄道は1920年に設立された民間会社(私鉄)である。当初、第1期線として新橋~上野間を一気に着工する予定だったが、第1次世界大戦の戦後恐慌により経済状況が暗転し、見込んでいた資金が集まらなくなった。そこでいちるの望みをかけて交渉を続けていたのが外国資本の導入であった。

 その中で、地下鉄計画を「東洋で最も有望な事業」と評価した米投資会社の社長ジョン・W・ドーチーから2000万円の融資を引き出すことに成功する。大型案件を手土産に帰途に就くドーチーが乗り込んだ客船プレジデント・ウィルソン号の出航時刻は1923年9月1日正午であった。

 その2分前に関東大震災が発生。帰国を延期したドーチーは東京と横浜の被害状況を視察して驚愕(きょうがく)し、東京の復興がなされない限り投資は考えられないとして、融資の案件を白紙に戻すことに決めた。

 資金を絶たれた東京地下鉄道は新橋~上野間の建設を断念し、どうにかかき集めた1000万円を元手に、上野~浅草間を先行開業させることにした。ターミナル駅上野から東京一の盛り場であった浅草へ、デモンストレーション的な観光鉄道として、まずは地下鉄そのものを売り込むことにしたのである。

 地下鉄は開業当初こそ物珍しさもあって繁盛したが、上野から徐々に都心方面に延伸していったため、銀座、新橋に到達するまで利用は低迷し、経営は苦しかったという。最終的に民間企業主体の地下鉄整備は行き詰まり、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の設立につながっていくが、関東大震災がなければ日本初の地下鉄はアメリカ外資のもと一気に建設され、後の地下鉄整備の在り方も変わっていたかもしれない。