宗教上の理由からか音楽や映画を好まなかったが、サッカーが大好きでイギリスの名門プロサッカークラブ・アーセナルFCのファンだったという。戒律の厳しい母国を抜け出してはレバノンの首都ベイルートにある派手なナイトクラブやカジノに頻繁に出没していた。190センチを超える長身で甘いマスク。女性とも遊び、酒も飲んだという。

 早い話が、人もうらやむような典型的なエリート富裕層の若者だったのである。そのまま父の仕事を継いでいれば、大金持ちの経営者として自由気ままな人生を送れただろう。

 しかし、信心深い父の影響もあって、ビンラディン青年はいつしかイスラム同胞団の理論的指導者だったエジプトの作家サイイド・クトゥブの思想に感化されていた。

 クトゥブは反世俗主義、反西洋文明主義者だった。イスラムの教えのみが真の文明社会を実現できると信じてイスラム社会の建設を訴えた。同時に「堕落した」物質主義のアメリカを痛烈に批判していた。この考え方がその後ビンラディンが突き進む「ジハード(聖戦)」の思想的原動力になった。

 そんな彼の人生に大きなターニングポイントが訪れる。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻だ。第2次大戦後初めての非イスラム勢力によるイスラム国家の占領はアラブ世界を震撼させ、ビンラディンの闘争心を猛烈にかき立てた。

「私は怒りに燃え、ただちにアフガニスタンに向かった」。その頃を振り返って彼はアラブ人ジャーナリストにそう語っている。

 憤慨したビンラディンは、ソ連軍に抵抗する「ムジャヒディーン(ジハードを遂行する戦士)」に資金援助をするだけでなく、活動拠点をアフガニスタンに移し彼自身も戦闘に参加するようになった。

 アフガニスタンで共に戦ったパレスチナ兵士はビンラディンのことを「恐れを知らない男」だったと記憶していた。

「彼は我々の英雄だった。常に最前線で戦い、いつも誰よりも先を行った。資金を提供してくれただけでなく、彼自身を我々のためにささげてくれたのだ。アフガン農民やアラブの戦士と共に寝泊まりし、一緒に料理を作り、食べ、塹壕(ざんごう)を掘った。それがビンラディン流のやり方だった」