たとえば私自身、実は周りに言われるまで、自分が極度の貧困家庭だという自覚すらなかった。しかし、自分の境遇が貧困の連鎖を断ち切りづらい社会の中の一事象だったことに気づき、生活保護制度につながれないことの問題点や、進学における負担などの社会問題を認識できたのである。

 自分の問題が社会問題だと気づいたとき、視界が開けたような感覚を覚えた。

 当事者は自分の問題を客観視しづらく、その結果必要な制度につながりにくい。自分の問題だと思って背負い込んでしまうのだ。先に触れたが、ヤングケアラーの当事者は自分の置かれている状況を認識して、初めて必要な制度、外部の支援につながることができる。

「環境のせいにするな」ではなく「むしろ自分の問題は自分だけの問題ではなく、環境の影響があって、社会問題なのだ」と気づく必要があるのだ。

親への恨み節ではなく、貧困の再生産への警鐘

 私の絶望は、障害のある父の元に生まれたことでも、貧困家庭で育ったことでもない。その後の支援が薄く、脆弱な社会保障制度、自己責任論がまん延し、行き過ぎた「自助」を強いられる今の日本社会に対してだ。

 生い立ちによるハンディは振り払っても振り払って振り払っても全力で足にしがみついてくるし、進学後も就職後も、周囲とのあまりのベース、背負っているもの、乗り越えなければならないものの違いに、途方に暮れ、打ちのめされることは少なくなかった。

 親の所得で選べる選択肢が決まりハンディを負わざるを得ない人たち、貧困が再生産され固定化されるこの社会への違和感を抱えている人たちに、「親ガチャ」というキャッチーでセンセーショナルな言葉がハマったのではないか、と思うのである。

 それぞれが背負ったものは本人にしかその景色は見えないし、体験もできない。

 自分には想像もできないハンディを背負った人たちが世の中にはいるということを、頭の片隅にでも置いておいてほしい。