トレインライン・グループは、2017年度に、イギリスの顧客からおよそ1億4800万ポンドの収入を得ている。たった75ペンスの予約手数料の積み重ねが、この金額になるのだ。

トレインラインは、私たち利用者に電車の切符の購入を最小限の煩雑さで実現するという有用なサービスを提供している。しかし、このサービスの対価として、イギリスの電車利用客から2017年度に得た1億4800万ポンドもの金額は、果たして適正だったのか? また、同様の利便性をこの半分のコストで提供することはできなかったのだろうか?

この1億4800万ポンドのうち、いくらが正当な付加価値として認められ、またリスクを負担するコストと認められるのだろうか?

そして、電車の切符販売における独占企業ともいえる立場を利用して得た金額のうち、いくらが不当な富の搾取だろうか?

この質問に対する回答は簡単ではない。なぜなら、まずカネの流れの大半は、ジャージー島、ルクセンブルク、ケイマン諸島に隠されている一方で、私たちの社会が「企業は儲けすぎている」と判断する線引きのレベルという哲学的な問題を提起するからだ。

1つ明らかなのは、他に選択肢のないイギリスの電車利用者は、トレインラインに多額の手数料を支払っており、その一方でKKRとその投資家たちは多額の利益を上げているということだ。いくらをもって企業の「儲けすぎ」と言うかは別としても、この多額の利益は少なくとも利用者にとっては、隠された課税と同等と言えるのである。

金融化時代の到来で、企業経営者やそのアドバイザーと金融セクターは、これまで主流であった経済に貢献する形態の富の創出から乖離し、金融手法を駆使して、経済から富を搾取する方向に舵を切った。金融化は、株主や経営者に莫大な利益をもたらす一方、そのよって立つ土台である実体経済、すなわち私たち庶民が暮らしを維持し、働く場である実体経済は沈滞してしまっている。いわばこれら莫大な利益と経済の沈滞はコインの表裏であり、いずれも富の搾取なのだ。
これこそ、名づけて「金融の呪い」なのである。

そして、金融の呪いのコンセプトは単純だ。すなわち、金融セクターがいったん最適な規模および有益な役割を果たす規模を超えてしまうと、その拠点を置く国に害をなし始める。

それらは、伝統的な金融の役割である社会への貢献や、適正な富の創出ではなく、他の分野から富を搾取する利益率の高い分野の活動に舵を切ってしまう。同時に、政治的な影響力を強め、法律や規則、ひいては社会そのものを彼らの目的に適合させようとし始める。

その結果、低経済成長、貧富の差の拡大、非効率的な市場、公共サービスの劣化、汚職による腐敗の進行、競合する経済分野の空洞化、そして民主主義と社会に対し、広範囲のダメージをもたらすのだ。