唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント9万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊された。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。
「手洗い」は常識ではなかった
「手を洗う」というのは、現代に生きる私たちにとっては当たり前の習慣である。手が泥や排泄物で汚れているときは当然として、見た目には明らかな「汚れ」がなくても私たちは手を洗う。
なぜだろうか?
そこには目に見えない微生物が付着していて、これが病気の原因になりうることを知っているからだ。こうした知識がなかった十八世紀以前、「手洗い」は全く常識ではなかった。
手洗いの効果を初めて示したのは、ハンガリー人の産科医イグナーツ・ゼンメルヴァイスである。十九世紀初頭、ウィーン総合病院に勤務するゼンメルヴァイスは、産後の患者に起こる産褥熱に悩まされていた。
今でこそ産褥熱は、お産の際に膣や子宮に細菌が入って起こる感染症だと知られているが、当時はもちろんそうした知識はなかった。
ゼンメルヴァイスは、自分が配属された第一病棟では、第二病棟に比べて産褥熱の発生率がはるかに高いことに気づいた。この二つの病棟のお産には大きな違いがあった。第一病棟でお産に立ち会うのは医師や医学生であり、第二病棟で立ち会うのは助産師であったことだ。
医師や医学生は死体の解剖をよく行う一方、助産師は解剖に参加できなかった。ゼンメルヴァイスは、死体によって汚染された医師や医学生の手に、産褥熱の原因となる「何か」が付着しているのではないかと考えたのだ。ゼンメルヴァイスは彼らの手から、死体によって付着する何らかの物質を洗い落とすべきだと考えた。
一八四七年、ゼンメルヴァイスは分娩室に入るスタッフに、塩素水を用いた消毒液で手を洗うよう指示し、産褥熱による死亡を激減させた。この研究結果は賛否両論を巻き起こし、特に産科領域の権威からは嘲笑され、批判された。
当時はまだ「瘴気」(悪い空気)が流行病の原因と考えられていたことに加え、「医師自らが病気を引き起こしている」という彼の指摘そのものも、なかなか受け入れられにくかったからだ。
正しかった理論
一八四九年にウィーンを離れたゼンメルヴァイスは、のちに産褥熱の原因や予防についての書籍を著したが、やはり認められることはなかった。一八六五年には精神疾患を発症して精神病院に入院し、四十七歳の若さでこの世を去った。
当時の医師は、汚れた服を着て、患者ごとに器具を替えることもなく、極めて不潔な状態(今の水準では)で処置を行っていた。ゼンメルヴァイスの理論は極めて正しかったが、時代はこれを受け入れなかった。ゼンメルヴァイスの功績が認められるのは、手術時の消毒が広まった一八七〇年代以降のことである。
不運なことに、世界で初めて真実にたどり着いた天才の功績は認められず、その間にも多くの命が奪われ続けたのだ。
【参考文献】
『図説医学の歴史』(坂井建雄著、医学書院、二〇一九)
『医療の歴史 穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』(スティーブ・パーカー著、千葉喜久枝訳、創元社、二〇一六)
(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)