東洋コルク工業として出発MAZDA

 翌1921年(大正10年)に社長に就任した松田重次郎氏のリーダーシップのもと、東洋コルク工業は廃材からの「圧搾コルク板」の製造に成功。帝国海軍から大量の受注を受けます。独自の技術による「炭化コルク」の製造にも成功し、コルク業界で確固たる地位を築きました。

 2020年に発売された「MX-30」のインテリアには、自動車の内装用としては大変珍しいコルク素材が採用されています。マツダにとってコルクはヘリテージ素材。このことが創立100周年の節目にデビューする「MX-30」 に、コルクを使用することへの後押しとなったわけです。

|1931年|
自社製エンジンの3輪トラック「DA型」を発売

自社製エンジンの3輪トラック「DA型」を発売MAZDA

 1925年(大正14年)、東洋コルク工業は火事で工場が全焼するという災難に見舞われます。この大事故への反省から初心に戻った松田重次郎氏は、不安定なコルク業界の将来性に見切りをつけ、自らの半生を捧げた機械分野に自ら進んで舵を切ります。社名を東洋工業に改め、1930年(昭和5年)には早くもオートバイの生産に成功します。

 次に取りかかったのは、3輪トラックの開発でした。当時の日本で普及していた3輪トラックのエンジンは、その多くが海外からの輸入品。そこで東洋工業は、エンジンを含め主要部品を自社製造することを決定します。1931年(昭和6年)に、3輪トラック「マツダ号DA型」の生産に成功。この自動車生産開始時から、自動車のブランド名は「マツダ」(※社名は東洋工業のまま)に変更されます。 そう、今も連綿と受け継がれる「MAZDA」ブランドがここにスタートしたわけです。

 1935年(昭和10年)に発売されたKC型は大ヒットとなり、マツダは3輪トラック界において、「東急くろがね工業(後の日産工機)」や「ダイハツ」と並び、確固たる地位を占めることになります。

|1950年|
終戦から5年。ついに4輪車の生産に成功

4輪車の生産MAZDA

 太平洋戦争の原爆投下により、壊滅的な被害を受けた広島でしたが、東洋工業の社屋と工場は大きな被害を受けずに済みました。広島市街には他に大規模な建物が残っておらず、東洋工業の社内に広島県庁や警察署、裁判所などが間借りすることとなります。

 そんな混乱の中、東洋工業は終戦から2週間も立たないうちに3輪トラックの生産再開の準備を開始。そして、そのわずか4カ月後には、生産再開にこぎ着けます。

 さらに東洋工業は、4輪車への進出を計画します。1949年(昭和24年)に4輪トラックの試作第1号車が完成し、翌年には小型4輪トラック「CA型」を発売。ところが、販売台数はわずか35台。消防車型のCF型も75台の生産に留まります。販売が伸び悩んだことから、東洋工業は4輪車の生産を一旦ストップ。当時最盛期を迎えていた3輪トラックの生産に注力することとなります。