昨年の半ばくらいから、緊急事態宣言の最中であってもひっそりと、あるいは堂々と営業する飲食店が増えてきた。同時に、そうした店を支持する客が多数いて、少なくとも当事者間では問題がなかった。

 一方、それぞれの会社の「オフィス」にあっては、テレワーク勤務者の比率や、オフィスの出勤形態などが各社の判断に任されていた。オフィスでも感染リスクがあるにもかかわらず、である。そうするしかなかったし、それでいい。飲食店と客の間もそれでいいのではないか。

自由な選択と責任のバランス
「程度」の設定は難しい

 自由な選択には、その結果起こったことを受け入れる「責任」が当事者にはある。これは当然のことなのだが、「程度」の設定はそれなりに難しい。

 まず、自由な選択が有効なものであるためには、判断の前提になる情報が十分であることが必要だ。飲食店の場合、入店の「前」に客は条件を知る必要がある。

 また、そもそもコロナがどのようなものであるかについても当事者は知っておく必要がある。ただ、人によって知識の差や認識の内容に差があるものの、自分について意思決定できる程度にはコロナの知識は普及していると考えていいのではないか。

「完全に分かるまで、保守的に振る舞え」と言い出すとわれわれは何もできなくなるし、「専門家の言うことに全国民が一律に従え」というのは、ほとんどファシズムの領域だろう。

「責任」の範囲を大きく設定し過ぎると人は何もできなくなるし、いわゆる自粛警察のような愚かなお節介を正当化することになる。

 自分の選択のせいで自分なり家族なりが感染した場合は、それを受け入れるというくらいが、現時点では、「適当な加減」ではないだろうか。

 なお、国が、外国との人の往来について規制の強化や緩和を注意深く判断し、ワクチンや治療薬の確保、検査の提供、コロナに関する情報提供などに十分注力すべきであることは当然だ。その上で、自由な選択の範囲を広げることが、国民の幸福増進につながる。