『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら
[質問]
最近たまたまテレビ番組を見て、道徳が教科化されたことを知りました。道徳の教科化はVTRやその後のツイートを見ていると色々問題があるように思います。一応番組のサイトや文科省サイトの文科大臣のメッセージなどを見てみましたが、いまいち納得がいきません(特に、道徳教育がいじめ防止につながるというのは強く疑問に思います)。
学校で教わる道徳は何かが大きくずれているように思い、私は嫌いでした。しかし道徳それ自体が悪いものだとは思えません。
道徳について読書猿さんはどのように考えていますか?
道徳から自由になるのに「倫理学」は役立ちます
[読書猿の回答]
道徳は、良い悪いというより、人が人と暮らす間に否応なく〈分泌〉されてしまうものように感じます。自由な行為者相互の非決定な状況を、限られた認知資源で実時間で解決するのに頼れる主たるリソースであるからです。
『問題解決大全』序文の繰り返しになりますが、人間が道徳を持つのは自由であるからです。落下する石に「落ちるべきだ/べきでない」と言うのがナンセンスなように、必然的法則に服する存在に道徳は成り立ちません。行動の可能性が複数あるからこそ、どうあるべきかが問題となります。
自由な行為者が出会うとき、お互いに取り得る行動は複数あり得ます。そして最適な行動が何かは相手の行動に依る場合、ともに他方の取る行動に基づいて自分の行動を決めようとすれば、相手もまたこちらの行動に合わせて行動を決めようとする訳で、どちらもどの行動も選び得ないことになる。
自由な行為者相互の非決定な状況に〈道徳〉を導入してみましょう。ここでいう道徳は、漢語の「道」(天の理法)を「徳」(体得した状態)というより、西洋語のモラルの訳語です。その語源ラテン語のmoresの原義は「習俗」であり、この線で理解すれば〈特定の社会で成立する慣習〉程度のものです。
道徳には、行為者の行動を決定することはできませんが、行動の可能性を制限することはできます。状況毎に「すべき/すべきでない行動」をゆるくでも制限し、そこから外れた場合の反応(怒りや叱咤など)まで揃えておけば、互いの行動の予想範囲をある程度限ることができます。
心理学者のジェローム・ブルーナーは、物語は通常性と逸脱性の2つの側面で経験を構成すると指摘しましたが、道徳もまた通常性と逸脱性の2側面で行動の可能性を制限します。互いの行動が予期通りに進む場合(通常性)は、道徳はほぼ意識化されません(がその予期の系列をこっそり支えています)。
行為者の行動が道徳が予期する範囲を外れたとき、サンクション行動と道徳的非難の感情が生起し、道徳の存在が顕在化します。ここで生まれる義憤の念が集団において何が正しく何が犯してはならない聖なるものであるかを確認させ、道徳と集団の凝集性を再生産します。
さて、生まれてから死ぬまで同じコミュニティで生き続けるなら、おらが村の慣習だけでやっていけます。生きることそのものが慣習を知り実践することと重なるわけで、改めて取り出して学ぶ必要はありません。こうした社会では学校での道徳教育は不要です。
しかし道徳には、慣習とは異なる側面があります。哲学者ジョン・デューイは、慣習道徳と反省道徳の区別を設けましたが、反省道徳は道徳的善悪についての反省のうえにたったもので、場合によっては通用している慣習道徳を否定することもあるものです。これは応用哲学のひとつとしての倫理学の任務と重なります。
倫理学は、単純に慣習道徳を記述するのではなく、反省道徳の立場にたって道徳の原理を探究する学問です。これが必要になるのは、我々が生まれたコミュニティを空間的に離れ、時間的にも社会の有り様が変化することで、繰り返し異なる慣習道徳と出会うことになるからです。
また我々の一つひとつの行動は、遠近さまざまな影響を他に与えます。空間的/時間的に近接的にはよい影響を与える行動が、遠隔的には悪い影響を与えることがままあります。善意に駆動された行動が必ずしも良い結果につながらないからこそ、人は自分の道徳感情と想像力の内に引きこもらず、学ぶ必要があります。
参考図書として、平尾昌宏『ふだんづかいの倫理学』晶文社と、ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 : 学問, 功利主義, ジェンダー, 幸福を考える』晶文社をどうぞ。