――その当時ミャンマーに与信を与えるというのは、日本で想像する以上に難しかったのではないですか。

 現地の情報も全くないし、それはとても大変でしたよ。ミャンマーの財政歳入省のどんな数値を見ても、外貨準備高がない状態でした。しかし生活必需品の油を買うという事ですから、もしデフォルトを起こしたら、あと彼らにはもう手段がない。そういう意味で絶対大丈夫だという事で、与信を与えました。

――その当時から財界とミャンマーの架け橋として動かれていたと伺いました。

 1995年ごろ丸紅の当時の上司である春名会長に、ミャンマーは面白いですよという話をしたら、ミャンマーをオールジャパンで支援しようということになり、経団連の協議委員をしていた榛名と私で、当時の経団連の会長だった豊田章一郎さんに会いに行き、経団連としてミャンマー支援体制を作ろうという話をしました。

 その結果、経団連のなかで日本ミャンマー経済委員会をつくってもらいました。そして1996年に、経団連による大掛かりな第1回ミャンマーミッションを行いました。実質アレンジしたのが春名で、このミッションの団長でした。特に芙蓉グループを中心に、当時の富士銀行の頭取等、錚々たるメンバーで現地に行きました。1997年にも第2回のミッションを行いましたが、その後97年のアジア危機から多少ミャンマーブームがスローダウンし、政治的な状況もうまくいかなくなって、経団連の関与も薄くなっていきました。

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 苦しい時に助けたことに対して、現地はずっと感謝してくれるという。そのころ、大きなリスクを取って蒔いた種が、その後のミャンマーにおける人的ネットワーク構築において大きな礎になったという。

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今のネットワークにつながる
現地公務員向け研修の実施

――ミャンマーにおいて深くネットワークを構築する中で、現地の公務員に対する研修活動も行われていたと聞きます。その経緯はどういった内容だったのでしょうか。

 1999年に丸紅を退職して笹川平和財団に移った後も、継続してミャンマーに関わる仕事をしていました。そのころ、ミャンマーにとって手助けになることは何かと考えた中で、行政を支える公務員の人材育成なのではと思いました。

 その当時はまだ軍事政権下で、国外との交流もほとんどなかったため、公務員も外の知識を得ることがほとんどなかった時代です。そこで、シビル・サービス・トレーニング・アンド・セレクション・ボード(CSTSB)という、いわゆる現地の人事院のようなところがカウンターパートになって、ミャンマーの全省庁の役人を対象にトレーニングをすることにしました。この公務員訓練を通じて、いろいろ政府関係筋に人脈ができました。その当時最初に研修した人は、今は課長ぐらいになっています。

――当時は、西側諸国が接点を持たなかった中で、中国などが公務員の研修サポートを行っていたのでしょうか。

 いや、中国もやっていないでしょう。一方で、軍政時代でいろいろと制限があるなかで、日本の政府は当時からやっていました。