ジェームス・ローチェGM会長いすゞ自動車との提携交渉について声明を発表した後、記者会見するジェームス・ローチェGM会長 Photo:JIJI

瀬島龍三が責任者となって進めた
いすゞとビッグスリーの提携事業

 総合商社の自動車ビジネスは戦後、始まった。当初は自動車メーカーの国内販売事業、つまりカーディーラーの運営である。その次は国産車の輸出支援と海外での販売店運営事業だった。

 1980年代以降、自動車メーカーが海外に工場を作り、進出していくと、現地工場のために素材、部品、製造設備の調達やリース・ファイナンス事業も手がけるようになった。

 ただし、近年は、重要部品の調達では開発段階から部品会社と共同で設計することが増えている。自動車会社と部品会社は一体化してきているわけだ。

 伊藤忠の自動車ビジネスは戦後、乗用車ではなくトラック、バス、特装車(消防車、警察車両など)の海外輸出と富士重工(現 SUBARU)の乗用車販売から始まった。

 輸出の実績では次のようなものがある。ブラジルへ日産製のパトロールカー、エジプト向けにいすゞの消防車、タイ向けにダイハツのオート3輪、コロンビア向けにトヨタのランドクルーザー、インドネシア向けにいすゞの消防車とトヨタのランドクルーザー(警察車両)、チリの産業開発公団には日産の消防車…。

 乗用車の輸出は日産自動車との合弁でチリ日産自動車を設立した。南アフリカへはマツダのトラックをKD(ノックダウン 現地組み立て)輸出している。ペルーではいすゞと合弁で販売会社を設立し、フィリピンでもいすゞと合弁で乗用車ベレットのノックダウン輪出、カナダではマツダと合弁で販売会社設立…。

 いすゞと組んだ仕事が多く、それも海外では東南アジア、南米、アフリカといった地域が主だった。伊藤忠、いすゞともにアメリカではそれほどの実績はなかったのである。

 1969年、社長の越後正一は自動車事業で伊藤忠の存在感を高め、弱かったアメリカマーケットを開拓するため、専務取締役業務本部長だった瀬島龍三を、いすゞの提携事業の責任者に据えた。

 瀬島は直接の担当として業務本部の酒井隆、アメリカ伊藤忠の室伏稔(のち社長)のエースふたりを起用。英語に堪能なアメリカ伊藤忠のJ・W・チャイもスタッフに加えた。

 スタッフを決めた頃はまだ相手がGMと決まっていたわけではない。ビッグスリーであればどこでもよかったのである。

 もっとも、いすゞ、伊藤忠が「あそこがいい」と指さしたとしても、選択権はビッグスリーにあった。