ロシアの君主たち

 ロシアの君主は、ツァーリと呼ばれた(「カエサル」に由来)。1682年から1725年までロシアをおさめたピョートル1世は、西ヨーロッパが大好きだった。

 彼は西ヨーロッパの慣習ややり方を取り入れ、ロシアを西ヨーロッパに近づけようとした。そのために、男性たちに西ヨーロッパ人と同じようにひげを剃らせ、従わない人には課税をおこなったというから驚きだ!

 強力な海軍を築き、ロシアを拡大し、偉大な都市サンクト=ペテルブルクを築いたことから、ピョートル大帝の異名を得たことでも知られる。すると、彼の死後30年以上たって、エカチェリーナ2世が1762年から1796年までロシアをおさめた。

 彼女はロシアを拡大し、教育を推進し、農業を近代化したことで知られる。

オーストリアのマリア=テレジア

 オーストリアでは、マリア=テレジアが、父親のカール6世が死んだ1740年に、広大なハプスブルク帝国の統治者となった。650年間続いた王朝のなかで、彼女が唯一の女性統治者だった。

 1740年にマリア=テレジアが即位すると、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)が侵攻してきて、マリア=テレジアを帝国の正当な統治者として認めない、と宣言した。

 フランスがプロイセン側につき、イギリスがオーストリアの味方につくと、戦争は激しさを増していく。オーストリア継承戦争(1740年~1748年)と呼ばれるようになったこの戦いは、1748年のエクス=ラ=シャペル条約の締結をもってようやく終結した。

 マリア=テレジアは、強力な政府を築き、公正な司法制度をつくり、ハプスブルク帝国をひとつにし、農奴の状況を改善した。しかも、そのあいだになんと16人の子どもをもうけたのだ。

イングランドの内乱

 イングランドにしかれたのは絶対君主制じゃなく、立憲君主制だった。つまり、イングランドの政府は、議会によって部分的に支配されていた、ということだ。

 1603年にエリザベス1世が亡くなると、テューダー朝は終わりを迎える。すると、エリザベスのいとこのジェームズ1世(スコットランド王)が、ステュアート朝の数々の指導者のなかでひとり目のイングランド王についた。

 彼は、自分には神からさずかった統治権があると信じていて、議会との協力を拒んだ。こうした態度が、ピューリタンたちの不満を高める。ピューリタンとは、カルヴァン派の考えに共鳴した、イングランドのプロテスタント集団のこと。

 庶民院(イングランド議会の下院)に属するピューリタンたちの多くは、王とイングランド国教会との強い結びつきに反対し、教会を王から切り離そうとしたのだ。

 次に王位についたのは、ジェームズ1世の息子のチャールズ1世だけれど、彼の議会嫌いは父以上だった。1628年、彼は議会の解散を命じ、それからなんと11年間も、議会を開催させなかったのだという!

 すると、内乱が起こる。

 1642年、議会の支持派(短髪だったので円頂党と呼ばれた)が、王の支持派(騎士党または王党派)と戦った。しかし、1646年までに、円頂党が勝利をおさめ、チャールズ1世はあえなくとらえられてしまう。

クロムウェルの独裁体制

 円頂党の軍事指導者のひとり、オリヴァ=クロムウェルは、人々の権利を絶対権力から守るために尽力した。彼は自分と敵対する議員たちをどんどん追放していった。

 残った議員たちで構成されたランプ議会は、1649年、チャールズ1世を反逆の罪で処刑するよう命じた。そして、君主制と貴族院を打倒し、新しい種類の共和国、イングランド共和国の樹立を宣言した。

 その後、クロムウェルは軍事的独裁体制を築き、王じゃなくイングランドの護国卿として、いままでとは別のタイプの絶対支配をしいた。この時代のことを、護国卿時代(1653年~1659年)という。

名誉革命

 1658年にクロムウェルが死ぬと、チャールズ1世の息子のチャールズ2世が王位につき、君主制を復活させる。

 でも、状況は大きく変わった。

 1660年に始まったイングランド王政復古で、チャールズ2世は、議会がかつて議決したカトリックやピューリタンに対する差別的な法律を差し止めた。

 対して、議会は、軍事的・行政的な職につけるのは、イングランド国教会の教徒だけだと述べた。こうして、宗教的・政治的な対立は増していった。

 死の直前、チャールズ2世はカトリックに改宗し、弟のジェームズ2世が王位を受け継いだ。ジェームズ2世もカトリックだったので、議会との溝はいっそう深まってしまう。

 議会は、オランダ総督オラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)に、イングランドの統治を委ねた。ジェームズ2世はロンドンを去り、1689年、ウィリアム3世とメアリ2世(それぞれ、ジェームズ2世の義理の息子と実の娘)が、イングランドの王と女王として宣言された。

 この時期のことを、名誉革命と呼ぶ(流血がほとんどなく、そのあとに平和な時期が続いたため)。ふたりは、議会の求めに応じて、王と女王に即位し、イングランドの権利の章典に署名した。

 権利の章典とは、法律を制定し、課税をおこなう(税金を課す)議会の権利を盛り込んだものだ。また、君主は議会の同意なしに軍を召集できないとも定められ、立憲君主制に基づく統治制度をつくるのにも役立った。

(※本原稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を抜粋・再編集したものです)