山陽新幹線の新大阪~岡山間が1972年3月15日に開業してから、50周年を迎えた。その歴史とともに、航空機とのシェア争いの中で果たした役割を振り返ってみたい。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
急曲線と急勾配を排し
時速250キロ以上を可能に
山陽新幹線新大阪~岡山間の開業から、3月15日で50周年を迎えた。山陽新幹線は3年後の1975年に岡山~博多駅間が開業して全通した。
最初に開業した東海道新幹線は、飽和状態にあった在来線東京~大阪間を抜本的に改善するために建設された。建設にあたっては在来線の複々線化で対応する案もあったが、時速200キロ以上の高速運転が可能な「広軌別線」方式が選択され、高速性、安全性を備えつつ大量輸送を実現。当時斜陽と言われた鉄道を生まれ変わらせた。
これに対して山陽新幹線は、将来の輸送力逼迫(ひっぱく)を見越して建設された路線だ。山陽本線沿線は当時、全国の20%にあたる約1900万人の人口を抱え、工場出荷数は全国の3分の1に達していた。高度成長の最中、経済活動の拡大により輸送量も増加の一途をたどっており、大阪~岡山間は1969年頃、岡山~広島間は1973年頃、広島~博多間は1975年頃に、東海道新幹線開業前の東海道本線在来線並みの運行本数になると試算されていた。