キューバ危機と核兵器の恐怖

 そのあいだ、アメリカとソ連は、両国間の戦争に備えて、軍や兵器を強化していった。この強化のことを、軍拡競争という。冷戦中、両国のあいだに戦いは起こらなかったけれど、軍拡競争によって、航空機、ジェット機、戦車などの兵器システムがどんどん進歩していった。

 双方が、より致命的な爆弾を開発して、相手を出し抜こうと考えると、核兵器はますます危険性を増していく。ついには、どちらの国も、相手の国を何度も破壊し尽くせるほどの爆弾を保有する結果になったのだ。

 キューバでは、共産主義指導者のフィデル=カストロが、労働者や農民による革命を率いて、フルヘンシオ=バティスタの右派独裁政権に対抗した。カストロは、バティスタが無視していたキューバの下層階級の人々に、教育、医療、国有地の権利を与えたかった。

 キューバのサトウキビのプランテーションは、その多くを外国人が所有していたからだ。アメリカは、自国の近くに共産主義政権ができるのをよく思わず、1961年4月、アメリカのジョン=F=ケネディ大統領(通称JFK)が、亡命キューバ人戦士たちによるキューバ侵攻を支援し、カストロを倒そうとした。このピッグス湾事件は失敗に終わり、亡命戦士たちが降伏する結果となった。

 こうして、カストロは権力の座に残り、キューバに共産主義支配をしき、ソ連に支援を求めたのだ。

 ピッグス湾事件の1年後、アメリカがキューバにソ連のミサイルがあるのを発見する。これが、1962年10月のキューバ危機だ。核戦争に発展していてもおかしくなかったけれど、幸い、アメリカがキューバの艦隊を封鎖すると、ソ連がミサイルの撤去に応じた。

14歳からわかる「冷戦」とソ連が崩壊したワケ

 それでも、核兵器が使われるかもしれないという恐怖は、突然、ものすごく現実的なものになったといえる。

冷戦の終結

 冷戦は、1985年にソ連共産党の書記長となったミハイル=ゴルバチョフが進めた改革などによって、1989年に終結する。ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)と呼ばれる、ソ連の政治経済制度の急激な再構築を呼びかけた。

 彼はまた、ペレストロイカの政策のひとつであるグラスノスチ(情報公開)も支持し、ソ連の強みや弱みについて堂々と発言するよう、ソ連市民に促した。

 その結果、ソ連の構成国は次々と独立を要求し、共産党は崩壊してしまう。1987年、ソ連とアメリカは、中距離核戦力の廃止に合意した。1991年には、ソ連そのものが崩壊する。

 こうして、ソ連とアメリカの軍拡競争、そして冷戦は、ついに終わりを告げたのだった。

(※本原稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を抜粋・再編集したものです)