抗議の連帯を示す「ガイ・フォークスマスク」
映画の舞台は、核戦争が起きた後、独裁政権に支配されるようになった架空の英国だ。この国においては、権力者が市民を監視、盗聴するのは当たり前。メディアは日夜プロパガンダを垂れ流し、報道機関としての役割をまったく果たしていない。反国家的な言動をした者は問答無用で逮捕され、同性愛者などのマイノリティーは収容所に送られる。恐怖の全体主義体制が敷かれたディストピアなのだ。ここにさっそうと現れたのが、「ガイ・フォークスマスク」と呼ばれる仮面をかぶった正体不明の男「V」である。彼はテレビ局をジャックし、国民たちに蜂起を呼び掛ける……。
22年の今、本作を目の前の現実と重ね合わせることなく鑑賞するのは、むしろ難しい。仮面のVがメッセージを送る様子はアノニマスが公開した動画とそっくりだし、独裁政権がマイノリティーに加える強い弾圧も、社会をコントロールするためのメディアの支配やフェイクニュースも、報道によって伝えられている現在のロシアの状況そのものだからだ。
アノニマスは、この映画の公開直後の06年ころに活動を始めており、以降、ガイ・フォークスマスクが活動のシンボルになっていく。この流れを見ても、本作から強い影響を受けていることは明らかだ。インターネットの掲示板で自然発生的に生まれたこの集団には、組織体としてのはっきりとした線引きがない。「名もなき群衆」であるメンバーをつなぎ止めているのは、ある意味では映画『V フォー・ヴェンデッタ』が示す世界観だともいえるのである。
テロリストとして犯罪行為に手を染めるVは、むろん手放しで褒められる正義ではない。しかし、自ら悪役を引き受けてでも現状を打破しようという意志は変化の原動力になる。Vの出自や動機は、マスクで隠された素顔と同じく明らかにされないが、本作が強い影響力を持った理由もそこにある。彼は誰でもないからこそ、誰でもある。あらゆる被抑圧者を代弁する存在といえるのだ。
映画のクライマックスでは、人々がついに立ち上がる熱いシーンが描かれている。Vが目指したのは、まさにここで象徴されているような「一人一人が個人として行動する世界」の実現だろう。社会を抑圧する装置を破壊し、個が主体性を持つ自由な社会に近づくこと――。アノニマスが本作に共鳴して生まれた事実を踏まえれば、この集団がただ無差別にハッキングを仕掛ける愉快犯ではなく、「悪しき権力の打破」を目指していることが見えてくる。
そして、ガイ・フォークスマスクは、なにもアノニマスの専売特許ではない。11年にウォール街から巻き起こったオキュパイ(占拠)運動や、19~20年の香港民主化デモでもこのマスクを着けた抗議者が街にあふれた。それは無名の人々が連帯を示せるツールになったのだ。