国民が気付くべき「スポーツ界の現実」
選手の“自由と独立”を応援することこそが重要

 強化は難しい。大きな舞台で成果を出す、それは本当にスペシャリストの世界だ。大きな勝負を制するには、瞬時に変わる状況をかぎ分け、賭けにも等しい判断の繰り返しが必要だ。とても部外者に理解できるものではない。信頼して任せ、応援することしかサポーターにはできないことを、スポーツファン、そしてメディアが認識し、リスペクトすべきではないだろうか。道徳的な常識とは別のひらめきや大胆な感性がそこでは重要な役割を果たす。

 日本国民に、この機会に気付いてほしい現実がある。

 スポーツ界は、モスクワ五輪ボイコットの反省を生かし、政治からの独立を悲願として取り組んだ経緯がある。政府が決めたボイコットの方針に従わざるを得なかったのは、組織的にJOC(日本オリンピック委員会)が国の支配下にあり、遠征費や強化費も全て国の支援に依存していたからだ。そこで、スポーツ関係者の涙ぐましい努力の結果、JOCは1989年、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)からの独立を果たした。これで、政府の束縛を受けず、スポーツ界は独自の判断で歩めるはずだった。

 ところが、現実は厳しい。全ての競技が独立採算では活動できない。資金援助は不可欠だ。さまざまな現実や思惑が交錯する中、その後、スポーツ界は事実上、政府の支配下に戻ってしまった。

 しかも、パワハラ問題に端を発したスポーツ団体の組織の見直しに乗じて、政府は規制や支配を強めている。ガバナンスの整備のため、日本スポーツ協会は全ての競技団体に公益法人化を求めている。これも結局、内閣府の管理下に置かれるという意味でも、「下部組織」としての色彩を強くする傾向につながっている。

 スポーツの自治と自由が侵害されるなら、公益法人化などは受け入れない判断もあっていいはずだ。が、拒否すれば、助成金を受ける資格を失い、オリンピック種目から除外される心配もある。そうやって、スポーツ界は政治的に縛られているのだ。そういうスポーツの政治支配こそ、危険だと警戒しなければならない。
 
 スポーツ界が、政府や上部団体から独立し、自主的に運営できる体制を確立することこそ重要だ。メディアがこの本質を見逃して、スキャンダルの発掘のため結果的に権力構造の強化に加担するような動きは滑稽だ。

 武井会長には、当初の予定どおり助成金を申請してもらいたいくらいだ。

 私たちの務めは、スポーツ選手の自由と独立を応援することではないか。

(作家・スポーツライター 小林信也)