坂本龍馬が徳川御三家に賠償金をふっかけた!沈没船から分かった真実とは鞆の浦で観光船としてよみがえったいろは丸 Photo:PIXTA

近年、“水中”に遺された遺跡や遺物を通して、歴史に新たな光をあてる試みが注目を集めています。とりわけ、海、湖、川など、水とともに生きてきた日本人にとって、水の中から歴史を読み解く作業は、日本史上のこれまでの説を検証するためにも欠かせないものです。そこで今回は、「遺された歴史」取材班編の『「水中遺跡」消えた日本史を追え!』(青春出版社)の中から、瀬戸内海に沈んだ坂本龍馬「いろは丸」の“現在地”と幕末日本の真実について抜粋紹介します。

龍馬が闇に葬った衝突事故の真相とは

「亀山社中(かめやましゃちゅう)」――幕末、土佐藩脱藩浪士・坂本龍馬(さかもとりょうま)が中心になって結成した、日本初の貿易商社だ。この亀山社中を龍馬が発展的に解散、新たな組織として生まれ変わらせたのが、ご存じ「海援隊(かいえんたい)」である。

 この海援隊の活動を語るうえで、けっして外せない一隻(せき)の船がある。蒸気船・いろは丸だ。龍馬ら海援隊が操船し瀬戸内海を航行中に紀州藩(和歌山県)の軍艦・明光丸(めいこうまる)と衝突事故を起こして海中に沈んでしまい、その事故が原因で龍馬が紀州藩から多額の賠償金(ばいしょうきん)をせしめたことで有名な、あのいろは丸である。

 本稿では、龍馬が闇(やみ)に葬(ほうむ)ったとされる衝突事故の真相と、平成に入ってから数回実施された沈没船の海中探索の様子も併(あわ)せて語ってみたい。